title
三四郎 四の九
author
夏目金之助
body
翌日学校へ出ると講義は例によつて詰らないが、室内の空気は依然として俗を離れてゐるので、午後三時迄の間に、すつかり第二の世界の人となり終せて、さも偉人の様な態度を以て、追分の交番の前迄来ると、ぱつたり与次郎に出逢つた。
「アハヽヽ。アハヽヽ」
偉人の態度は是が為に全く崩れた。交番の巡査さへ薄笑ひをしてゐる。
「なんだ」
「なんだも無いものだ。もう少し普通の人間らしく歩くがいゝ。丸で浪漫的アイロニーだ」
三四郎には此洋語の意味がよく分らなかつた。仕方がないから、
「家はあつたか」と聞いた。
「その事で今君の所へ行つたんだ――明日愈引越す。手伝に来て呉れ」
「何所へ越す」
「西片町十番地への三号。九時迄に向へ行つて掃除をしてね。待つてゝ呉れ。あとから行くから。いゝか、九時迄だぜ。への三号だよ。失敬」
与次郎は急いで行き過ぎた。三四郎も急いで下宿へ帰つた。其晩取つて返して、図書館で浪漫的アイロニーと云ふ句を調べて見たら、独乙のシユレーゲルが唱へ出した言葉で、何でも天才と云ふものは、目的も努力もなく、終日ぶら/\ぶら付いて居なくつては駄目だと云ふ説だと書いてあつた。三四郎は漸く安心して、下宿へ帰つて、すぐ寐た。
翌日は約束だから、天長節にも拘はらず、例刻に起きて、学校へ行く積りで西片町十番地へ這入つて、への三号を調べて見ると、妙に細い通りの中程にある。古い家だ。
玄関の代りに西洋間が一つ突き出してゐて、それと鉤の手に座敷がある。座敷の後ろが茶の間で、茶の間の向が勝手、下女部屋と順に並んでゐる。外に二階がある。但し何畳だか分らない。
三四郎は掃除を頼まれたのだが、別に掃除をする必要もないと認めた。無論奇麗ぢやない。然し何と云つて、取つて捨てべきものも見当らない。強ひて捨てれば畳建具位なものだと考へながら、雨戸丈を明けて、座敷の縁側へ腰を掛けて庭を眺めて居た。
大きな百日紅がある。然し是は根が隣りにあるので、幹の半分以上が横に杉垣から、此方の領分を冒してゐる丈である。大きな桜がある。是は慥かに垣根の中に生えてゐる。其代り枝が半分往来へ逃げ出して、もう少しすると電話の妨害になる。菊が一株ある。けれども寒菊と見えて、一向咲いて居ない。此外には何にもない。気の毒な様な庭である。たゞ土丈は平らで、肌理が細かで甚だ美くしい。三四郎は土を見てゐた。実際土を見る様に出来た庭である。
そのうち高等学校で天長節の式の始まる号鐘が鳴り出した。三四郎は号鐘を聞きながら九時が来たんだらうと考へた。何もしないでゐても悪いから、桜の枯葉でも掃かうかしらんと漸く気が付いた時、箒がないといふ事を考へ出した。また縁側へ腰を掛けた。掛けて二分もしたかと思ふと、庭木戸がすうと明いた。さうして思も寄らぬ池の女が庭の中にあらはれた。