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三四郎 五の二
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夏目金之助
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縁側から座敷を見廻すと、しんと静かである。茶の間は無論、台所にも人はゐない様である。
「御母さんはもう御国へ御帰りになつたんですか」
「まだ帰りません。近いうちに立つ筈ですけれど」
「今、入つしやるんですか」
「今一寸買物に出ました」
「あなたが里見さんの所へ御移りになると云ふのは本当ですか」
「何うして」
「何うしてつて――此間広田先生の所でそんな話がありましたから」
「まだ極りません。事によると、さうなるかも知れませんけれど」
三四郎は少しく要領を得た。
「野々宮さんは元から里見さんと御懇意なんですか」
「えゝ。御友達なの」
男と女の友達といふ意味かしらと思つたが、何だか可笑しい。けれども三四郎はそれ以上を聞き得なかつた。
「広田先生は野々宮さんの元の先生ださうですね」
「えゝ」
話しは「えゝ」で塞へた。
「あなたは里見さんの所へ入らつしやる方が可いんですか」
「私? さうね。でも美禰子さんの御兄いさんに御気の毒ですから」
「美禰子さんの兄さんがあるんですか」
「えゝ。宅の兄と同年の卒業なんです」
「矢っ張り理学士ですか」
「いゝえ、科は違ひます。法学士です。其又上の兄さんが広田先生の御友達だつたのですけれども、早く御亡くなりになつて、今では恭助さん丈なんです」
「御父さんや御母さんは」
よし子は少し笑ひながら、
「ないわ」と云つた。美禰子の父母の存在を想像するのは滑稽であると云はぬ許である。余程早く死んだものと見える。よし子の記憶には丸でないのだらう。
「さう云ふ関係で美禰子さんは広田先生のうちへ出入をなさるんですね」
「えゝ。死んだ兄さんが広田先生とは大変仲善だつたさうです。それに美禰子さんは英語がすきだから、時々英語を習ひに入らつしやるんでせう」
「此方へも来ますか」
よし子は何時の間にか、水彩画の続きを描き始めた。三四郎が傍にゐるのが丸で苦になつてゐない。それでゐて、能く返事をする。
「美禰子さん?」と聞きながら、柿の木の下にある藁葺屋根に影をつけたが、
「少し黒過ますね」と画を三四郎の前へ出した。三四郎は今度は正直に、
「えゝ、少し黒過ます」と答へた。すると、よし子は画筆に水を含ませて、黒い所を洗ひながら、
「入らつしやいますわ」と漸く三四郎に返事をした。
「度々?」
「えゝ度々」とよし子は依然として画紙に向つてゐる。三四郎は、よし子が画のつゞきを描き出してから、問答が大変楽になつた。