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三四郎 五の三
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夏目金之助
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しばらく無言の儘、画の中を覗いてゐると、よし子は丹念に藁葺家根の黒い影を洗つてゐたが、あまり水が多過ぎたのと、筆の使ひ方が中/\不慣なので、黒いものが勝手に四方へ浮き出して、折角赤く出来た柿が、蔭干の渋柿の様な色になつた。よし子は画筆の手を休めて、両手を伸ばして、首をあとへ引いて、ワツトマンを成るべく遠くから眺めてゐたが、仕舞に、小さな声で、
「もう駄目ね」と云ふ。実際駄目なのだから、仕方がない。三四郎は気の毒になつた。
「もう御廃しなさい。さうして、又新らしく御描きなさい」
よし子は顔を画に向けた儘、尻眼に三四郎を見た。大きな潤のある眼である。三四郎は益気の毒になつた。すると女が急に笑ひ出した。
「馬鹿ね。二時間許り損をして」と云ひながら、折角描いた水彩の上へ、横縦に二三本太い棒を引いて、絵の具函の蓋をぱたりと伏せた。
「もう廃しませう。座敷へ御這入りなさい、御茶を上げますから」と云ひながら、自分は上へあがつた。三四郎は靴を脱ぐのが面倒なので、矢っ張り縁側に腰を掛けてゐた。腹の中では、今になつて、茶を遣るといふ女を非常に面白いと思つてゐた。三四郎に度外れの女を面白がる積は少しもないのだが、突然御茶を上げますと云はれた時には、一種の愉快を感ぜぬ訳に行かなかつたのである。其感じは、どうしても異性に近づいて得られる感じではなかつた。
茶の間で話し声がする。下女は居たに違ない。やがて襖を開いて、茶器を持つて、よし子があらはれた。其顔を正面から見たときに、三四郎は又、女性中の尤も女性的な顔であると思つた。
よし子は茶を汲んで縁側へ出して、自分は座敷の畳の上へ坐つた。三四郎はもう帰らうと思つてゐたが、此女の傍にゐると、帰らないでも構はない様な気がする。病院では曾て此女の顔を眺め過ぎて、少し赤面させた為めに、早速引き取つたが、今日は何ともない。茶を出したのを幸ひに縁側と座敷で又談話を始めた。色々話してゐるうちに、よし子は三四郎に妙な事を聞き出した。それは、自分の兄の野々宮が好か嫌かと云ふ質問であつた。一寸聞くと丸で頑是ない小供の云ひさうな事であるが、よし子の意味はもう少し深い所にあつた。研究心の強い学問好きの人は、万事を研究する気で見るから、情愛が薄くなる訳である。人情で物をみると、凡てが好き嫌ひの二つになる。研究する気なぞが起るものではない。自分の兄は理学者だものだから、自分を研究して不可ない。自分を研究すればする程、自分を可愛がる度は減るのだから、妹に対して不親切になる。けれども、あの位研究好の兄が、この位自分を可愛がつて呉れるのだから、それを思ふと、兄は日本中で一番好い人に違ないと云ふ結論であつた。
三四郎は此説を聞いて、大いに尤もな様な、又何所か抜けてゐる様な気がしたが、偖何所が抜けてゐるんだか、頭がぼんやりして、一寸分らなかつた。それで表向此説に対しては別段の批評を加へなかつた。たゞ腹の中で、これしきの女の云ふ事を、明瞭に批評し得ないのは、男児として腑甲斐ない事だと、いたく赤面した。同時に、東京の女学生は決して馬鹿に出来ないものだと云ふ事を悟つた。
三四郎はよし子に対する敬愛の念を抱いて下宿へ帰つた。端書が来てゐる。「明日午後一時頃から菊人形を見に参りますから、広田先生のうち迄入らつしやい。美禰子」
其字が、野々宮さんの隠袋から半分食み出してゐた封筒の上書に似てゐるので、三四郎は何遍も読み直して見た。