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三四郎 五の六
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夏目金之助
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行くに従つて人が多くなる。しばらくすると一人の迷子に出逢つた。七つ許りの女の子である。泣きながら、人の袖の下を右へ行つたり、左りへ行つたりうろ/\してゐる。御婆さん、御婆さんと無暗に云ふ。是には往来の人もみんな心を動かしてゐる様に見える。立ち留るものもある。可哀想だといふものもある。然し誰も手を付けない。小供は凡ての人の注意と同情を惹きつゝ、しきりに泣き号んで御婆さんを探してゐる。不可思議の現象である。
「これも場所が悪い所為ぢやないか」と野々宮君が小供の影を見送りながら云つた。
「今に巡査が始末をつけるに極つてるから、みんな責任を逃れるんだね」と広田先生が説明した。
「私の傍迄来れば交番迄送つてやるわ」とよし子が云ふ。
「ぢや、追掛て行つて、連れて行くがいゝ」と兄が注意した。
「追掛るのは厭」
「何故」
「何故つて――こんなに大勢人がゐるんですもの。私に限つた事はないわ」
「矢っ張り責任を逃れるんだ」と広田がいふ。
「矢っ張り場所が悪いんだ」と野々宮がいふ。男は二人で笑つた。団子坂の上迄来ると、交番の前へ人が黒山の様に集つてゐる。迷子はとう/\巡査の手に渡つたのである。
「もう安心大丈夫です」と美禰子が、よし子を顧みて云つた。よし子は「まあ可かつた」といふ。
坂の上から見ると、坂は曲つてゐる。刀の切先の様である。幅は無論狭い。右側の二階建が左側の高い小屋の前を半分遮ぎつてゐる。其後には又高い幟が何本となく立ててある。人は急に谷底へ落ち込む様に思はれる。其落ち込むものが、這い上がるものと入り乱れて、路一杯に塞がつてゐるから、谷の底にあたる所は幅をつくして異様に動く。見てゐると眼が疲れるほど不規則に蠢いてゐる。広田先生は此坂の上に立つて、
「是は大変だ」と、さも帰りたさうである。四人はあとから先生を押す様にして、谷へ這入つた。其谷が途中からだら/\と向へ廻り込む所に、右にも左にも、大きな葭簀掛の小屋を、狭い両側から高く構へたので、空さへ存外窮屈に見える。往来は暗くなる迄込み合つてゐる。其中で木戸番が出来る丈大きな声を出す。「人間から出る声ぢやない。菊人形から出る声だ」と広田先生が評した。それ程彼等の声は尋常を離れてゐる。
一行は左りの小屋へ這入つた。曾我の討入がある。五郎も十郎も頼朝もみな平等に菊の着物を着てゐる。たゞし顔や手足は悉く木彫りである。其次は雪が降つてゐる。若い女が癪を起してゐる。是も人形の心に、菊を一面に這はせて、花と葉が平らに隙間なく衣装の恰好となる様に作つたものである。
よし子は余念なく眺めてゐる。広田先生と野々宮君はしきりに話しを始めた。菊の培養法が違ふとか何とかいふ所で、三四郎は外の見物に隔てられて、一間ばかり離れた。美禰子はもう三四郎より先にゐる。見物は概して町家のものである。教育のありさうなものは極めて少ない。美禰子は其間に立つて、振り返つた。首を延ばして、野々宮のゐる方を見た。野々宮は右の手を竹の手欄から出して、菊の根を指しながら、何か熱心に説明してゐる。美禰子は又向をむいた。見物に押されて、さつさと出口の方へ行く。三四郎は群集を押し分けながら、三人を棄てゝ、美禰子の後を追つて行つた。