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三四郎 五の七

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三四郎 五の七

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夏目金之助

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 漸くの事で、美禰子の傍迄来て、

「里見さん」と呼んだ時に、美禰子は青竹の手欄に手を突いて、心持首を戻して、三四郎を見た。何とも云はない。手欄のなかは養老の滝である。丸い顔の、腰に斧を指した男が、瓢簟を持つて、滝壺の傍に跼んでゐる。三四郎が美禰子の顔を見た時には、青竹のなかに何があるか殆んど気が付かなかつた。

「どうかしましたか」と思はず云つた。美禰子はまだ何とも答へない。黒い眼を左も物憂さうに三四郎の額の上に据ゑた。其時三四郎は美禰子の二重瞼に不可思議なある意味を認めた。其意味のうちには、霊の疲れがある。肉の弛みがある。苦痛に近き訴へがある。三四郎は、美禰子の答へを予期しつゝある今の場合を忘れて、此眸と此瞼の間に凡てを遺却した。すると、美禰子は云つた。

「もう出ませう」

 眸と瞼の距離が次第に近づく様に見えた。近づくに従つて、三四郎の心には女の為に出なければ済まない気が萌して来た。それが頂点に達した頃、女は首を投げる様に向ふをむいた。手を青竹の手欄から離して、出口の方へ歩いて行く。三四郎はすぐ後から跟いて出た。

 二人が表てゞ並んだ時、美禰子は俯向て右の手を額に当てた。周囲は人が渦を捲いてゐる。三四郎は女の耳へ口を寄せた。

「どうかしましたか」

 女は人込のなかを谷中の方へ歩き出した。三四郎も無論一所に歩き出した。半町ばかり来た時、女は人の中で留つた。

「此所は何所でせう」

「此方へ行くと谷中の天王寺の方へ出て仕舞ひます。帰り路とは丸で反対です」

「さう。私心持が悪くつて……」

 三四郎は往来の真中で扶なき苦痛を感じた。立つて考へてゐた。

「何所か静かな所はないでせうか」と女が聞いた。

 谷中と千駄木が谷で出逢ふと、一番低い所に小川が流れてゐる。此小川を沿ふて、町を左りへ切れるとすぐ野に出る。河は真直に北へ通つてゐる。三四郎は東京へ来てから何遍此小川の向側を歩いて、何遍此方側を歩いたか善く覚えてゐる。美禰子の立つてゐる所は、此小川が、丁度谷中の町を横切つて根津へ抜ける石橋の傍である。

「もう一町ばかり歩けますか」と美禰子に聞いて見た。

「歩きます」

 二人はすぐ石橋を渡つて、左へ折れた。人の家の路次の様な所を十間程行き尽して、門の手前から板橋を此方側へ渡り返して、しばらく河の縁を上ると、もう人は通らない。広い野である。

 三四郎は此静かな秋のなかへ出たら、急に舌り出した。

「どうです具合は。頭痛でもしますか。あんまり人が大勢ゐた所為でせう。あの人形を見てゐる連中のうちには随分下等なのがゐた様だから――何か失礼でもしましたか」

 女は黙つてゐる。やがて河の流れから、眼を上げて、三四郎を見た。二重瞼にはつきりと張りがあつた。三四郎は其眼付で半ば安心した。

「難有う、大分好くなりました」と云ふ。

「休みませうか」

「えゝ」

「もう少し歩けますか」

「えゝ」

「歩ければ、もう少し御歩きなさい。此所は汚ない。彼所迄行くと丁度休むに好い場所があるから」

「えゝ」