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三四郎 一の五
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夏目金之助
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三四郎は此男に見られた時、何となく極りが悪かつた。本でも読んで気を紛らかさうと思つて、革鞄を開けて見ると、昨夜の西洋手拭が、上の所にぎつしり詰つてゐる。そいつを傍へ掻き寄せて、底の方から、手に障つた奴を何でも構はず引き出すと、読んでも解らないベーコンの論文集が出た。ベーコンには気の毒な位薄つぺらな粗末な仮綴である。元来汽車の中で読む了見もないものを、大きな行李に入れ損なつたから、片付ける序に提革鞄の底へ、外の二三冊と一所に放り込んで置いたのが、運悪く当選したのである。三四郎はベーコンの二十三頁を開いた。他の本でも読めさうにはない。ましてベーコン抔は無論読む気にならない。けれども三四郎は恭しく二十三頁を開いて、万遍なく頁全体を見廻してゐた。三四郎は二十三頁の前で一応昨夜の御浚をする気である。
元来あの女は何だらう。あんな女が世の中に居るものだらうか。女と云ふものは、ああ落付いて平気でゐられるものだらうか。無教育なのだらうか、大胆なのだらうか。それとも無邪気なのだらうか。要するに行ける所迄行つて見なかつたから、見当が付かない。思ひ切つてもう少し行つて見ると可かつた。けれども恐ろしい。別れ際にあなたは度胸のない方だと云はれた時には、喫驚した。二十三年の弱点が一度に露見した様な心持であつた。親でもあゝ旨く言ひ中てるものではない。……
三四郎は此所迄来て、更に悄然て仕舞つた。何所の馬の骨だか分らないものに、頭の上がらない位打された様な気がした。ベーコンの二十三頁に対しても甚だ申訳がない位に感じた。
どうも、あゝ狼狽しちや駄目だ。学問も大学生もあつたものぢやない。甚だ人格に関係してくる。もう少しは仕様があつたらう。けれども相手が何時でもあゝ出るとすると、教育を受けた自分には、あれより外に受け様がないとも思はれる。すると無暗に女に近付いてはならないと云ふ訳になる。何だか意気地がない。非常に窮屈だ。丸で不具にでも生れた様なものである。けれども……
三四郎は急に気を易へて、別の世界の事を思ひ出した。――是から東京に行く。大学に這入る。有名な学者に接触する。趣味品性の具つた学生と交際する。図書館で研究をする。著作をやる。世間が喝采する。母が嬉しがる。と云ふ様な未来をだらしなく考へて、大いに元気を回復して見ると、別に二十三頁の中に顔を埋めてゐる必要がなくなつた。そこでひよいと頭を上げた。すると筋向ふにゐたさつきの男がまた三四郎の方を見てゐた。今度は三四郎の方でも此男を見返した。
髭を濃く生やしてゐる。面長の瘠ぎすの、どことなく神主じみた男であつた。たゞ鼻筋が真直に通つてゐる所丈が西洋らしい。学校教育を受けつゝある三四郎は、こんな男を見ると屹度教師にして仕舞ふ。男は白地の絣の下に、丁重に白い繻絆を重ねて、紺足袋を穿いてゐた。此服装から推して、三四郎は先方を中学校の教師と鑑定した。大きな未来を控へてゐる自分から見ると、何だか下らなく感ぜられる。男はもう四十だらう。是より先もう発展しさうにもない。