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三四郎 六の九

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三四郎 六の九

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夏目金之助

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 あくる日は予想の如く好天気である。今年は例年より気候がずつと緩んでゐる。殊更今日は暖かい。三四郎は朝のうち湯に行つた。閑人の少ない世の中だから、午前は頗る空いてゐる。三四郎は板の間に懸けてある三越呉服店の看板を見た。奇麗な女が画いてある。其女の顔が何所か美禰子に似てゐる。能く見ると眼付が違つてゐる。歯並が分らない。美禰子の顔で尤も三四郎を驚かしたものは眼付と歯並である。与次郎の説によると、あの女は反つ歯の気味だから、あゝ始終歯が出るんださうだが、三四郎には決してさうは思へない。……

 三四郎は湯に浸つてこんな事を考へてゐたので、身体の方はあまり洗はずに出た。昨夕から急に新時代の青年といふ自覚が強くなつたけれども、強いのは自覚丈で、身体の方は元の儘である。休になると他のものよりずつと楽にしてゐる。今日は午から大学の陸上運動会を見に行く気である。

 三四郎は元来あまり運動好きではない。国に居るとき兎狩を二三度した事がある。それから高等学校の端艇競争のときに旗振の役を勤めた事がある。其時青と赤と間違へて振つて大変苦情が出た。尤も決勝の鉄砲を打つ掛りの教授が鉄砲を打ち損なつた。打つには打つたが音がしなかつた。これが三四郎の狼狽た源因である。それより以来三四郎は運動会へ近づかなかつた。然し今日は上京以来始めての競技会だから是非行つて見る積である。与次郎も是非行つて見ろと勧めた。与次郎の云ふ所によると競技より女の方が見に行く価値があるのださうだ。女のうちには野々宮さんの妹がゐるだらう。野々宮さんの妹と一所に美禰子もゐるだらう。其所へ行つて、今日はとか何とか挨拶をして見たい。

 午過になつたから出掛けた。会場の入口は運動場の南の隅にある。大きな日の丸と英吉利の国旗が交叉してある。日の丸は合点が行くが、英吉利の国旗は何の為だか解らない。三四郎は日英同盟の所為かとも考へた。けれども日英同盟と大学の陸上運動会とはどう云ふ関係があるか、頓と見当が付かなかつた。

 運動場は長方形の芝生である。秋が深いので芝の色が大分褪めてゐる。競技を看る所は西側にある。後ろに大きな築山を一杯に控へて、前は運動場の柵で仕切られた中へ、みんなを追ひ込む仕掛になつてゐる。狭い割に見物人が多いので甚だ窮屈である。幸ひ日和が好いので寒くはない。然し外套を着てゐるものが大分ある。其代り傘をさして来た女もある。

 三四郎が失望したのは婦人席が別になつてゐて、普通の人間には近寄れない事であつた。それからフロツクコートや何か着た偉さうな男が沢山集まつて、自分が存外幅の利かない様に見えた事であつた。新時代の青年を以て自から居る三四郎は少し小さくなつてゐた。それでも人と人の間から婦人席の方を見渡す事は忘れなかつた。横からだから能く見えないが、此所は流石に奇麗である。悉く着飾つてゐる。其上遠距離だから顔がみんな美くしい。その代り誰が目立つて美くしいといふ事もない。只総体が総体として美くしい。女が男を征服する色である。甲の女が乙の女に打ち勝つ色ではなかつた。そこで三四郎は又失望した。然し注意したら、何所かにゐるだらうと思つて、能く見渡すと、果して前列の一番柵に近い所に二人並んでゐた。