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三四郎 七の三
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夏目金之助
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「御母さんの云ふ事は成べく聞いて上げるが可い。近頃の青年は我々時代の青年と違つて自我の意識が強過ぎて不可ない。吾々の書生をして居る頃には、する事為す事一として他を離れた事はなかつた。凡てが、君とか、親とか、国とか、社会とか、みんな他本位であつた。それを一口にいふと教育を受けるものが悉く偽善家であつた。その偽善が社会の変化で、とう/\張り通せなくなつた結果、漸々自己本位を思想行為の上に輸入すると、今度は我意識が非常に発展し過ぎて仕舞つた。昔しの偽善家に対して、今は露悪家ばかりの状態にある。――君、露悪家といふ言葉を聞いた事がありますか」
「いゝえ」
「今僕が即席に作つた言葉だ。君も其露悪家の一人――だかどうだか、まあ多分さうだらう。与次郎の如きに至ると其最たるものだ。あの君の知つてる里見といふ女があるでせう。あれも一種の露悪家で、それから野々宮の妹ね。あれはまた、あれなりに露悪家だから面白い。昔しは殿様と親父丈が露悪家で済んでゐたが、今日では各自同等の権利で露悪家になりたがる。尤も悪い事でも何でもない。臭いものの蓋を除れば肥桶で、美事な形式を剥ぐと大抵は露悪になるのは知れ切つてゐる。形式丈美事だつて面倒な許だから、みんな節約して木地丈で用を足してゐる。甚だ痛快である。天醜爛漫としてゐる。所が此爛漫が度を越すと、露悪家同志が御互に不便を感じて来る。其不便が段高じて極端に達した時利他主義が又復活する。それが又形式に流れて腐敗すると又利己主義に帰参する。つまり際限はない。我々はさう云ふ風にして暮して行くものと思へば差支ない。さうして行くうちに進歩する。英国を見給へ。此両主義が昔からうまく平衡が取れてゐる。だから動かない。だから進歩しない。イブセンも出なければニイチエも出ない。気の毒なものだ。自分丈は得意の様だが、傍から見れば堅くなつて、化石しかゝつてゐる。……」
三四郎は内心感心した様なものゝ、話が外れて飛んだ所へ曲がつて、曲がりなりに太くなつて行くので、少し驚ろいてゐた。すると広田さんも漸く気が付いた。
「一体何を話してゐたのかな」
「結婚の事です」
「結婚?」
「えゝ、私が母の云ふ事を聞いて……」
「うん、左う/\。なるべく御母さんの言ふ事を聞かなければ不可ない」と云つてにこ/\してゐる。丸で小供に対する様である。三四郎は別に腹も立たなかつた。
「我々が露悪家なのは、可いですが、先生時代の人が偽善家なのは、どういふ意味ですか」
「君、人から親切にされて愉快ですか」
「えゝ、まあ愉快です」
「屹度? 僕はさうでない、大変親切にされて不愉快な事がある」
「どんな場合ですか」
「形式丈は親切に適つてゐる。然し親切自身が目的でない場合」
「そんな場合があるでせうか」
「君、元日に御目出度と云はれて、実際御目出たい気がしますか」
「そりや……」
「しないだらう。それと同じく腹を抱へて笑ふだの、転げかへつて笑ふだのと云ふ奴に、一人だつて実際笑つてる奴はない。親切も其通り。御役目に親切をして呉れるのがある。僕が学校で教師をしてゐる様なものでね。実際の目的は衣食にあるんだから、生徒から見たら定めて不愉快だらう。之に反して与次郎の如きは露悪党の領袖だけに、度々僕に迷惑を掛けて、始末に了へぬいたづらものだが、悪気がない。可愛らしい所がある。丁度亜米利加人の金銭に対して露骨なのと一般だ。それ自身が目的である。それ自身が目的である行為程正直なものはなくつて、正直程厭味のないものは無いんだから、万事正直に出られない様な我々時代の小六づかしい教育を受けたものはみんな気障だ」
此所迄の理窟は三四郎にも分つてゐる。けれども三四郎に取つて、目下痛切な問題は、大体にわたつての理窟ではない。実際に交渉のある或格段な相手が、正直か正直でないかを知りたいのである。三四郎は腹の中で美禰子の自分に対する素振をもう一遍考へて見た。所が気障か気障でないか殆んど判断が出来ない。三四郎は自分の感受性が人一倍鈍いのではなからうかと疑がひ出した。