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三四郎 七の四
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夏目金之助
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其時広田さんは急にうんと云つて、何か思ひ出した様である。
「うん、まだある。此二十世紀になつてから妙なのが流行る。利他本位の内容を利己本位で充たすと云ふ六かしい遣口なんだが、君そんな人に出逢つたですか」
「何んなのです」
「外の言葉で云ふと、偽善を行ふに露悪を以てする。まだ分らないだらうな。ちと説明し方が悪い様だ。――昔しの偽善家はね。何でも人に善く思はれたいが先に立つんでせう。所が其反対で、人の感触を害する為めに、わざ/\偽善をやる。横から見ても縦から見ても、相手には偽善としか思はれない様に仕向けて行く。相手は無論厭な心持がする。そこで本人の目的は達せられる。偽善を偽善其儘で先方に通用させ様とする正直な所が露悪家の特色で、しかも表面上の行為言語は飽迄も善に違ないから、――そら、二位一体といふ様な事になる。此方法を巧妙に用ひるものが近来大分殖えて来た様だ。極めて神経の鋭敏になつた文明人種が、尤も優美に露悪家にならうとすると、これが一番好い方法になる。血を出さなければ人が殺せないといふのは随分野蛮な話だからな君、段々流行らなくなる」
広田先生の話し方は、丁度案内者が古戦場を説明する様なもので、実際を遠くから眺めた地位に自からを置いてゐる。それで頗る楽天の趣がある。恰も教場で講義を聞くと一般の感を起させる。然し三四郎には応へた。念頭に美禰子といふ女があつて、此理論をすぐ適用出来るからである。三四郎は頭の中に此標準を置いて、美禰子の凡てを測つて見た。然し測り切れない所が大変ある。先生は口を閉ぢて、例の如く鼻から哲学の烟を吐き始めた。
所へ玄関に足音がした。案内も乞はずに廊下伝ひに這入つて来る。忽ち与次郎が書斎の入口に坐つて、
「原口さんが御出になりました」と云ふ。只今帰りましたといふ挨拶を省いてゐる。わざと省いたのかも知れない。三四郎には存在な目礼をした許ですぐに出て行つた。
与次郎と敷居際で擦れ違つて、原口さんが這入つて来た。原口さんは仏蘭西式の髭を生やして、頭を五分刈にした、脂肪の多い男である。野々宮さんより年が二つ三つ上に見える。広田先生よりずつと奇麗な和服を着てゐる。
「やあ、暫く。今迄佐々木が宅へ来てゐてね。一所に飯を食つたり何かして――それから、とう/\引張り出されて、……」と大分楽天的な口調である。傍にゐると自然陽気になる様な声を出す。三四郎は原口と云ふ名前を聞いた時から、大方あの画工だらうと思つてゐた。夫にしても与次郎は交際家だ。大抵な先輩とはみんな知合になつてゐるから豪いと感心して硬くなつた。三四郎は年長者の前へ出ると硬くなる。九州流の教育を受けた結果だと自分では解釈してゐる。
やがて主人が原口に紹介して呉れる。三四郎は丁寧に頭を下げた。向ふは軽く会釈した。三四郎はそれから黙つて二人の談話を承はつてゐた。
原口さんは先づ用談から片付けると云つて、近いうちに会をするから出て呉れと頼んでゐる。会員と名のつく程の立派なものは拵らへない積だが、通知を出すものは、文学者とか芸術家とか、大学の教授とか、僅かな人数に限つて置くから差支はない。しかも大抵知り合の間だから、形式は全く不必要である。目的はたゞ大勢寄つて晩餐を食ふ。それから文芸上有益な談話を交換する。そんなものである。
広田先生は一口「出やう」と云つた。用事は夫で済んで仕舞つた。用事は夫で済んで仕舞つたが、それから後の原口さんと広田先生の会話が頗る面白かつた。