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三四郎 七の五

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三四郎 七の五

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夏目金之助

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 広田先生が「君近頃何をしてゐるかね」と原口さんに聞くと、原口さんがこんな事を云ふ。

「矢っ張り一中節を稽古してゐる。もう五つ程上げた。花紅葉吉原八景だの、小稲半兵衛唐崎心中だのつて中々面白いのがあるよ。君も少し遣つて見ないか。尤もありや、余り大きな声を出しちや、不可ないんだつてね。本来が四畳半の座敷に限つたものださうだ。所が僕が此通り大きな声だらう。それに節廻しがあれで中々込み入つてゐるんで、何うしても旨く不可ん。今度一つ遣るから聞いて呉れ玉へ」

 広田先生は笑つてゐた。すると原口さんは続をかう云ふ風に述べた。

「それでも僕はまだ可いんだが、里見恭助と来たら、丸で片無しだからね。どう云ふものか知らん。妹はあんなに器用だのに。此間はとうとう降参して、もう唄は已める、其代り何か楽器を習はうと云ひ出した所が、馬鹿囃を御習ひなさらないかと勧めたものが有つてね。大笑ひさ」

「そりや本当かい」

「本当とも。現に里見が僕に、君が遣るなら遣つても好いと云つた位だもの。あれで馬鹿囃には八通り囃かたがあるんださうだ」

「君、遣つちや何うだ。あれなら普通の人間にでも出来さうだ」

「いや馬鹿囃は厭だ。それよりか鼓が打つて見たくつてね。何故だか鼓の音を聞いてゐると、全く二十世紀の気がしなくなるから可い。どうして今の世にあゝ間が抜けてゐられるだらうと思ふと、それ丈で大変な薬になる。いくら僕が呑気でも、鼓の音の様な画はとても描けないから」

「描かうともしないんぢやないか」

「描けないんだもの。今の東京にゐるものに悠揚な画が出来るものか。尤も画にも限るまいけれども。――画と云へば、此間大学の運動会へ行つて、里見と野々宮さんの妹のカリカチユアーを描いて遣らうと思つたら、とうとう逃げられて仕舞つた。こんだ一つ本当の肖像画を描いて展覧会にでも出さうかと思つて」

「誰の」

「里見の妹の。どうも普通の日本の女の顔は歌麿式や何かばかりで、西洋の画布には移が悪くつて不可ないが、あの女や野々宮さんは可い。両方共画になる。あの女が団扇を翳して、木立を後に、明るい方を向いてゐる所を等身に写して見様かしらと思つてる。西洋の扇は厭味で不可ないが、日本の団扇は新しくつて面白いだらう。兎に角早くしないと駄目だ。今に嫁にでも行かれやうものなら、さう此方の自由に行かなくなるかも知れないから」

 三四郎は多大な興味を以て原口の話を聞いてゐた。ことに美禰子が団扇を翳してゐる構図は非常な感動を三四郎に与へた。不思議の因縁が二人の間に存在してゐるのではないかと思ふ程であつた。すると広田先生が、「そんな図はさう面白い事もないぢやないか」と無遠慮な事を云ひ出した。

「でも当人の希望なんだもの。団扇を翳してゐる所は、どうでせうと云ふから、頗る妙でせうと云つて承知したのさ。何わるい図どりではないよ。描き様にも因るが」

「あんまり美くしく描くと、結婚の申込が多くなつて困るぜ」

「ハヽヽぢや中位に描いて置かう。結婚と云へば、あの女も、もう嫁に行く時期だね。どうだらう、何所か好い口はないだらうか。里見にも頼まれてゐるんだが」

「君貰つちや何うだ」

「僕か。僕で可ければ貰ふが、どうもあの女には信用がなくつてね」

「何故」

「原口さんは洋行する時には大変な気込で、わざ/\鰹節を買ひ込んで、是で巴理の下宿に籠城するなんて大威張だつたが、巴理へ着くや否や、忽ち豹変したさうですねつて笑ふんだから始末がわるい。大方兄からでも聞いたんだらう」

「あの女は自分の行きたい所でなくつちや行きつこない。勧めたつて駄目だ。好な人がある迄独身で置くがいゝ」

「全く西洋流だね。尤もこれからの女はみんな左うなるんだから、それも可からう」

 夫から二人の間に長い絵画談があつた。三四郎は広田先生の西洋の画工の名を沢山知つてゐるのに驚ろいた。帰るとき勝手口で下駄を探してゐると、先生が階子段の下へ来て「おい佐々木一寸下りて来い」と云つてゐた。