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三四郎 七の六
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夏目金之助
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戸外は寒い。空は高く晴れて、何処から露が降るかと思ふ位である。手が着物に触ると、触つた所だけが冷りとする。人通りの少ない小路を二三度折れたり曲つたりして行くうちに、突然辻占屋に逢つた。大きな丸い提灯を点けて、腰から下を真赤にしてゐる。三四郎は辻占が買つて見たくなつた。然し敢て買はなかつた。杉垣に羽織の肩が触る程に、赤い提燈を避けて通した。しばらくして、暗い所を斜に抜けると、追分の通へ出た。角に蕎麦屋がある。三四郎は今度は思ひ切つて暖簾を潜つた。少し酒を飲む為である。
高等学校の生徒が三人ゐる。近頃学校の先生が午の弁当に蕎麦を食ふものが多くなつたと話してゐる。蕎麦屋の担夫が午砲が鳴ると、蒸籠や種ものを山の様に肩へ載せて、急いで校門を這入つてくる。此所の蕎麦屋はあれで大分儲かるだらうと話してゐる。何とかいふ先生は夏でも釜揚饂飩を食ふが、どう云ふものだらうと云つてゐる。大方胃が悪いんだらうと云つてゐる。其外色々の事を云つてゐる。教師の名は大抵呼び棄にする。中に一人広田さんと云つたものがある。それから何故広田さんは独身でゐるかといふ議論を始めた。広田さんの所へ行くと女の裸体画が懸けてあるから、女が嫌なんぢやなからうと云ふ説である。尤も其裸体画は西洋人だから当にならない。日本の女は嫌かも知れないといふ説である。いや失恋の結果に違ないと云ふ説も出た。失恋してあんな変人になつたのかと質問したものもあつた。然し若い美人が出入するといふ噂があるが本当かと聞き糺したものもあつた。
段々聞いてゐるうちに、要するに広田先生は偉い人だといふ事になつた。何故偉いか三四郎にも能く解らないが、兎に角此三人は三人ながら与次郎の書いた「偉大なる暗闇」を読んでゐる。現にあれを読んでから、急に広田さんが好になつたと云つてゐる。時々は「偉大なる暗闇」のなかにある警句抔を引用して来る。さうして盛んに与次郎の文章を賞めてゐる。零余子とは誰だらうと不思議がつてゐる。何しろ余程よく広田さんを知つてゐる男に相違ないといふ事には三人共同意した。
三四郎は傍に居て成程と感心した。与次郎が「偉大なる暗闇」を書く筈である。文芸時評の売れ高の少ないのは当人の自白した通であるのに、例々しく彼の所謂大論文を掲げて得意がるのは、虚栄心の満足以外に何の為になるだらうと疑つてゐたが、是で見ると活版の勢力は矢張り大したものである。与次郎の主張する通り、一言でも半句でも云はない方が損になる。人の評判はこんな所から揚がり、又こんな所から落ちると思ふと、筆を執るものゝ責任が恐ろしくなつて、三四郎は蕎麦屋を出た。
下宿へ帰ると、酒はもう醒めて仕舞つた。何だか詰らなくつて不可ない。机の前に坐つて、ぼんやりしてゐると、下女が下から湯沸に熱い湯を入れて持つて来た序に、封書を一通置いて行つた。又母の手紙である。三四郎はすぐ封を切つた。今日は母の手蹟を見るのが甚だ嬉しい。
手紙は可なり長いものであつたが、別段の事も書いてない。ことに三輪田の御光さんについては一口も述べてないので大いに難有かつた。けれども中に妙な助言がある。
御前は小供の時から度胸がなくつて不可ない。度胸の悪いのは大変な損で、試験の時なぞにはどの位困るか知れない。興津の高さんは、あんなに学問が出来て、中学校の先生をしてゐるが、検定試験を受けるたびに、身体が顫へて、うまく答案が出来ないんで、気の毒な事に未だに月給が上がらずにゐる。友達の医学士とかに頼んで顫への留る丸薬を拵らへて貰つて、試験前に飲んで出たが矢っ張り顫へたさうである。御前のはぶる/\顫へる程でもない様だから、平生から治薬に度胸の据る薬を東京の医者に拵らへて貰つて飲んで見ろ。癒らない事もなからうと云ふのである。
三四郎は馬鹿々々しいと思つた。けれども馬鹿しいうちに大いなる慰藉を見出した。母は本当に親切なものであると、つくづく感心した。其晩一時頃迄かゝつて長い返事を母に遣つた。其なかには東京はあまり面白い所ではないと云ふ一句があつた。