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三四郎 八の七

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三四郎 八の七

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夏目金之助

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 二人は半町程無言の儘連れ立つて来た。其間三四郎は始終美禰子の事を考へてゐる。此女は我儘に育つたに違ない。それから家庭にゐて、普通の女性以上の自由を有して、万事意の如く振舞ふに違ない。かうして、誰の許諾も経ずに、自分と一所に、往来を歩くのでも分る。年寄の親がなくつて、若い兄が放任主義だから、斯うも出来るのだらうが、是が田舎であつたら嘸困ることだらう。此女に三輪田の御光さんの様な生活を送れと云つたら、何うする気かしらん。東京は田舎と違つて、万事が明け放しだから、此方の女は、大抵斯うなのかも分らないが、遠くから想像して見ると、もう少しは旧式の様でもある。すると与次郎が美禰子をイブセン流と評したのも成程と思ひ当る。但し俗礼に拘はらない所丈がイブセン流なのか、或は腹の底の思想迄も、さうなのか。其所は分らない。

 そのうち本郷の通へ出た。一所に歩いてゐる二人は、一所に歩いてゐながら、相手が何所へ行くのだか、全く知らない。今迄に横町を三つ許曲つた。曲るたびに、二人の足は申し合せた様に無言の儘同じ方角へ曲つた。本郷の通りを四丁目の角へ来る途中で、女が聞いた。

「何処へ入らつしやるの」

「あなたは何所へ行くんです」

 二人は一寸顔を見合せた。三四郎は至極真面目である。女は堪へ切れずに又白い歯を露はした。

「一所に入らつしやい」

 二人は四丁目の角を切り通しの方へ折れた。三十間程行くと、右側に大きな西洋館がある。美禰子は其前に留つた。帯の間から薄い帳面と、印形を出して、

「御願ひ」と云つた。

「何ですか」

「是で御金を取つて頂戴」

 三四郎は手を出して、帳面を受取つた。真中に小口当座預金通帳とあつて、横に里見美禰子殿と書いてある。三四郎は帳面と印形を持つた儘、女の顔を見て立つた。

「三拾円」と女が金高を云つた。恰も毎日銀行へ金を取りに行き慣けた者に対する口振である。幸ひ、三四郎は国にゐる時分、かう云ふ帳面を以て度々豊津迄出掛けた事がある。すぐ石段を上つて、戸を開けて、銀行の中へ這入つた。帳面と印形を掛のものに渡して、必要の金額を受取つて出て見ると、美禰子は待つてゐない。もう切り通しの方へ二十間許歩き出してゐる。三四郎は急いで追い付いた。すぐ受取つたものを渡さうとして、隠袋へ手を入れると、美禰子が、

「丹青会の展覧会を御覧になつて」と聞いた。

「まだ覧ません」

「招待券を二枚貰つたんですけれども、つい閑がなかつたものだから、まだ行かずにゐたんですが、行つて見ませうか」

「行つても可いです」

「行きませう。もう、ぢき閉会になりますから。私、一遍は見て置かないと原口さんに済まないのです」

「原口さんが招待券を呉れたんですか」

「えゝ。あなた原口さんを御存じなの?」

「広田先生の所で一度会ひました」

「面白い方でせう。馬鹿囃を稽古なさるんですつて」

「此間は鼓を稽ひたいと云つてゐました。夫から――」

「夫から?」

「夫から、あなたの肖像を描くとか云つてゐました。本当ですか」

「えゝ、高等モデルなの」と云つた。男は是より以上に気の利いた事が云へない性質である。それで黙つて仕舞つた。女は何とか云つて貰ひたかつたらしい。