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三四郎 八の八
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夏目金之助
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三四郎は又隠袋へ手を入れた。銀行の通帳と印形を出して、女に渡した。金は帳面の間に挟んで置いた筈である。然るに女が、
「御金は」と云つた。見ると、間にはない。三四郎は又衣嚢を探つた。中から手摺のした札を攫み出した。女は手を出さない。
「預かつて置いて頂戴」と云つた。三四郎は聊か迷惑の様な気がした。然しこんな時に争ふ事を好まぬ男である。其上往来だから猶更遠慮をした。折角握つた札を又元の所へ収めて、妙な女だと思つた。
学生が多く通る。擦れ違ふ時に屹度二人を見る。中には遠くから眼を付けて来るものもある。三四郎は池の端へ出る迄の路を頗る長く感じた。それでも電車に乗る気にはならない。二人共のそ/\歩いてゐる。会場へ着いたのは殆んど三時近くである。妙な看板が出てゐる。丹青会と云ふ字も、字の周囲についてゐる図案も、三四郎の眼には悉く新らしい。然し熊本では見る事の出来ない意味で新らしいので、寧ろ一種異様の感がある。中は猶更である。三四郎の眼には只油絵と水彩画の区別が判然と映ずる位のものに過ぎない。
それでも好悪はある。買つてもいゝと思ふのもある。然し巧拙は全く分らない。従つて鑑別力のないものと、初手から諦らめた三四郎は、一向口を開かない。
美禰子が是は何うですかと云ふと、左うですなといふ。是は面白いぢやありませんかと云ふと、面白さうですなといふ。丸で張合がない。話しの出来ない馬鹿か、此方を相手にしない偉い男か、何方かに見える。馬鹿とすれば衒はない所に愛嬌がある。偉いとすれば、相手にならない所が悪らしい。
長い間外国を旅行して歩いた兄妹の画が沢山ある。双方共同じ姓で、しかも一つ所に並べて掛けてある。美禰子は其一枚の前に留つた。
「ニスでせう」
是は三四郎にも解つた。何だかニスらしい。画舫にでも乗つて見たい心持がする。三四郎は高等学校に居る時分画舫といふ字を覚えた。それから此字が好になつた。画舫といふと、女と一所に乗らなければ済まない様な気がする。黙つて蒼い水と、水の左右の高い家と、倒さに映る家の影と、影の中にちらちらする赤い片とを眺めてゐた。すると、
「兄さんの方が余程旨い様ですね」と美禰子が云つた。三四郎には此意味が通じなかつた。
「兄さんとは……」
「此画は兄さんの方でせう」
「誰の?」
美禰子は不思議さうな顔をして、三四郎を見た。
「だつて、彼方の方が妹さんので、此方の方が兄さんのぢやありませんか」
三四郎は一歩退いて、今通つて来た路の片側を振り返つて見た。同じ様に外国の景色を描いたものが幾点となく掛つてゐる。
「違ふんですか」
「一人と思つて入らしつたの」
「えゝ」と云つて、呆やりしてゐる。やがて二人が顔を見合した。さうして一度に笑ひ出した。美禰子は、驚ろいた様に、わざと大きな眼をして、しかも一段と調子を落した小声になつて、
「随分ね」と云ひながら、一間ばかり、ずん/\先へ行つて仕舞つた。三四郎は立ち留つた儘、もう一遍ニスの堀割を眺め出した。先へ抜けた女は、此時振り返つた。三四郎は自分の方を見てゐない。女は先へ行く足をぴたりと留めた。向から三四郎の横顔を熟視してゐた。
「里見さん」
出し抜に誰か大きな声で呼んだ者がある。