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三四郎 八の九
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夏目金之助
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美禰子も三四郎も等しく顔を向け直した。事務室と書いた入口を一間許離れて、原口さんが立つてゐる。原口さんの後に、少し重なり合つて、野々宮さんが立つてゐる。美禰子は呼ばれた原口よりは、原口より遠くの野々宮を見た。見るや否や、二三歩後戻りをして三四郎の傍へ来た。人に目立ぬ位に、自分の口を三四郎の耳へ近寄せた。さうして何か私語いた。三四郎には何を云つたのか、少しも分らない。聞き直さうとするうちに、美禰子は二人の方へ引き返して行つた。もう挨拶をしてゐる。野々宮は三四郎に向つて、
「妙な連と来ましたね」と云つた。三四郎が何か答へやうとするうちに、美禰子が、
「似合ふでせう」と云つた。野々宮さんは何とも云はなかつた。くるりと後ろを向いた。後ろには畳一枚程の大きな画がある。其画は肖像画である。さうして一面に黒い。着物も帽子も背景から区別の出来ない程光線を受けてゐない中に、顔ばかり白い。顔は瘠せて、頬の肉が落ちてゐる。
「模写ですね」と野々宮さんが原口さんに云つた。原口は今しきりに美禰子に何か話してゐる。――もう閉会である。来観者も大分減つた。開会の初めには毎日事務へ来てゐたが、此頃は滅多に顔を出さない。今日は久し振りに、此方へ用があつて、野々宮さんを引張つて来た所だ。うまく出つ食はしたものだ。此会を仕舞ふと、すぐ来年の準備にかゝらなければならないから、非常に忙がしい。何時もは花の時分に開くのだが、来年は少し会員の都合で早くする積りだから、丁度会を二つ続けて開くと同じ事になる。必死の勉強をやらなければならない。それ迄に是非美禰子の肖像を描き上げて仕舞ふ積である。迷惑だらうが大晦日でも描ゝして呉れ。
「其代り此所ん所へ掛ける積です」
原口さんは此時始めて、黒い画の方を向いた。野々宮さんは其間ぽかんとして同じ画を眺めてゐた。
「どうです。ラスケスは。尤も模写ですがね。しかも余り上出来ではない」と原口が始めて説明する。野々宮さんは何にも云ふ必要がなくなつた。
「どなたが御写しになつたの」と女が聞いた。
「三井です。三井はもつと旨いんですがね。此画はあまり感服出来ない」と一二歩退がつて見た。「どうも、原画が技巧の極点に達した人のものだから、旨く行かないね」
原口は首を曲げた。三四郎は原口の首を曲げた所を見てゐた。
「もう、皆見たんですか」と画工が美禰子に聞いた。原口は美禰子に許話しかける。
「まだ」
「どうです。もう廃して、一所に出ちや。西洋軒で御茶でも上げます。なに私は用があるから、どうせ一寸行かなければならない。――会の事でね、マネジヤーに相談して置きたい事がある。懇意の男だから。――今丁度御茶に好い時分です。もう少しするとね、御茶には遅し晩餐には早し、中途半端になる。どうです。一所に入らつしやいな」
美禰子は三四郎を見た。三四郎はどうでも可い顔をしてゐる。野々宮は立つた儘関係しない。
「折角来たものだから、皆見て行きませう。ねえ、小川さん」
三四郎はえゝと云つた。
「ぢや、斯うなさい。此奥の別室にね。深見さんの遺画があるから、それ丈見て、帰りに西洋軒へ入らつしやい。先へ行つて待つてゐますから」
「難有う」
「深見さんの水彩は普通の水彩の積で見ちや不可ませんよ。何所迄も深見さんの水彩なんだから。実物を見る気にならないで、深見さんの気韻を見る気になつてゐると、中々面白い所が出て来ます」と注意して、原口は野々宮と出て行つた。美禰子は礼を云つて其後影を見送つた。二人は振り返らなかつた。