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三四郎 八の十

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三四郎 八の十

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夏目金之助

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 女は歩を回らして、別室へ入つた。男は一足後から続いた。光線の乏しい暗い部屋である。細長い壁に一列に懸つてゐる深見先生の遺画を見ると、成程原口さんの注意した如く殆んど水彩ばかりである。三四郎が著るしく感じたのは、其水彩の色が、どれも是も薄くて、数が少なくつて、対照に乏しくつて、日向へでも出さないと引き立たないと思ふ程地味に描いてあるといふ事である。其代り筆が些とも滞つてゐない。殆んど一気呵成に仕上た趣がある。絵の具の下に鉛筆の輪廓が明らかに透いて見えるのでも、洒落な画風がわかる。人間抔になると、細くて長くて、丸で殻竿の様である。こゝにもニスが一枚ある。

「是もニスですね」と女が寄つて来た。

「えゝ」と云つたが、ニスで急に思ひ出した。

「さつき何を云つたんですか」

 女は「さつき?」と聞き返した。

「さつき、僕が立つて、彼方のニスを見てゐる時です」

 女は又真白な歯を露はした。けれども何とも云はない。

「用でなければ聞かなくつても可いです」

「用ぢやないのよ」

 三四郎はまだ変な顔をしてゐる。曇つた秋の日はもう四時を越した。部屋は薄暗くなつてくる。観覧人は極めて少ない。別室の中には、只男女二人の影があるのみである。女は画を離れて、三四郎の真正面に立つた。

「野々宮さん。ね、ね」

「野々宮さん……」

「解つたでせう」

 美禰子の意味は、大濤の崩れる如く一度に三四郎の胸を浸した。

「野々宮さんを愚弄したのですか」

「何んで?」

 女の語気は全く無邪気である。三四郎は忽然として、後を云ふ勇気がなくなつた。無言の儘二三歩動き出した。女は縋る様に付いて来た。

「あなたを愚弄したんぢや無いのよ」

 三四郎は又立ち留つた。三四郎は脊の高い男である。上から美禰子を見下した。

「それで宜いです」

「何故悪いの?」

「だから可いです」

 女は顔を背けた。二人共戸口の方へ歩いて来た。戸口を出る拍子に互の肩が触れた。男は急に汽車で乗り合はした女を思ひ出した。美禰子の肉に触れた所が、夢に疼く様な心持がした。

「本当に宜いの?」と美禰子が小さい声で聞いた。向ふから二三人連の観覧者が来る。

「兎も角出ませう」と三四郎が云つた。下足を受取つて、出ると戸外は雨だ。

「西洋軒へ行きますか」

 美禰子は答へなかつた。雨の中を濡れながら、博物館前の広い原の中に立つた。幸ひ雨は今降り出した許である。其上烈しくはない。女は雨の中に立つて、見廻しながら、向ふの森を指した。

「あの樹の蔭へ這入りませう」

 少し待てば歇みさうである。二人は大きな杉の下に這つた。雨を防ぐには都合の好くない樹である。けれども二人とも動かない。濡れても立つてゐる。二人共寒くなつた。女が「小川さん」と云ふ。男は八の字を寄せて、空を見てゐた顔を女の方へ向けた。

「悪くつて? 先刻のこと」

「可いです」

「だつて」と云ひながら、寄つて来た。「私、何故だか、あゝ為たかつたんですもの。野々宮さんに失礼する積ぢやないんですけれども」

 女は瞳を定めて、三四郎を見た。三四郎は其瞳の中に言葉よりも深き訴を認めた。――必竟あなたの為にした事ぢやありませんかと、二重瞼の奥で訴へてゐる。三四郎は、もう一遍、

「だから、可いです」と答へた。

 雨は段々濃くなつた。雫の落ちない場所は僅かしかない。二人は段々一つ所へ塊まつて来た。肩と肩と擦れ合ふ位にして立ち竦んでゐた。雨の音の中で、美禰子が、

「さつきの御金を御遣ひなさい」と云つた。

「借りませう。要る丈」と答へた。

「みんな、御遣ひなさい」と云つた。