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三四郎 九の五
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夏目金之助
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翌日も其翌日も三四郎は野々宮さんの所へ行かなかつた。野々宮さんの方でも何とも云つて来なかつた。さうしてゐる内に一週間程経つた。仕舞に野々宮さんから、下宿の下女を使に手紙を寄こした。御母さんから頼まれものがあるから、一寸来て呉れろとある。三四郎は講義の隙を見て、又理科大学の穴倉へ降りて行つた。其所で立談の間に事を済ませやうと思つた所が、左う旨くは行かなかつた。此夏は野々宮さん丈で専領してゐた部屋に、髭の生えた人が二三人ゐる。制服を着た学生も二三人ゐる。それが、みんな熱心に、静粛に、頭の上の日の当る世界を余所にして、研究を遣つてゐる。其内で野々宮さんは尤も多忙に見えた。部屋の入口に顔を出した三四郎を、一寸見て、無言の儘近寄つて来た。
「国から、金が届いたから、取りに来て呉れ玉へ。今此所に持つてゐないから。それからまだ外に話す事もある」
三四郎ははあと答へた。今夜でも好いかと尋ねた。野々宮は少し考へてゐたが、仕舞に思ひ切つて、宜ろしいと云つた。三四郎は夫で穴倉を出た。出ながら、流石に理学者は根気の能いものだと感心した。此夏見た福神漬の缶と、望遠鏡が依然として故の通りの位地に備へ付けてあつた。
次の講義の時間に与次郎に逢つて是々だと話すと、与次郎は馬鹿だと云はない許に三四郎を眺めて、
「だから何時迄も借りて置いてやれと云つたのに。余計な事をして年寄には心配を掛ける。宗八さんには御談義をされる。是位愚な事はない」と丸で自分から事が起つたとは認めてゐない申分である。三四郎も此問題に関しては、もう与次郎の責任を忘れて仕舞つた。従つて与次郎の頭に掛つて来ない返事をした。
「何時迄も借りて置くのは、厭だから、家へさう云つて遣つたんだ」
「君は厭でも、向ふでは喜ぶよ」
「何故」
此何故が三四郎自身には幾分か虚偽の響らしく聞えた。然し相手には何等の影響も与へなかつたらしい。
「当り前ぢやないか。僕を人にしたつて、同じ事だ。僕に金が余つてゐるとするぜ。左うすれば、其金を君から返して貰ふよりも、君に貸して置く方が善い心持だ。人間はね、自分が困らない程度内で、成る可く人に親切がして見たいものだ」
三四郎は返事をしないで、講義を筆記し始めた。二三行書き出すと、与次郎が又、耳の傍へ口を持つて来た。
「おれだつて、金のある時は度々人に貸した事がある。然し誰も決して返したものがない。夫だからおれは此通り愉快だ」
三四郎は真逆、左うかとも云へなかつた。薄笑ひをした丈で、又洋筆を走らし始めた。与次郎も夫からは落付いて、時間の終る迄口を利かなかつた。
号鐘が鳴つて、二人肩を並べて教場を出るとき、与次郎が、突然聞いた。
「あの女は君に惚れてゐるのか」
二人の後から続々聴講生が出て来る。三四郎は已を得ず無言の儘階子段を降りて横手の玄関から、図書館傍の空地へ出て、始めて与次郎を顧みた。
「能く分らない」
与次郎は暫らく三四郎を見てゐた。
「左う云ふ事もある。然し能く分つたとして。君、あの女の夫になれるか」
三四郎は未だ曾て此問題を考へた事がなかつた。美禰子に愛せられるといふ事実其物が、彼女の夫たる唯一の資格の様な気がしてゐた。云はれて見ると、成程疑問である。三四郎は首を傾けた。
「野々宮さんならなれる」と与次郎が云つた。
「野々宮さんと、あの人とは何か今迄に関係があるのか」
三四郎の顔は彫り付けた様に真面目であつた。与次郎は一口、
「知らん」と云つた。三四郎は黙つてゐる。
「まあ野々宮さんの所へ行つて、御談義を聞いて来い」と云ひ棄てゝ、相手は池の方へ行き掛けた。三四郎は愚劣の看板の如く突立つた。与次郎は五六歩行つたが、又笑ひながら帰つて来た。
「君、いつそ、よし子さんを貰はないか」と云ひながら、三四郎を引つ張つて、池の方へ連れて行つた。歩きながら、あれなら好い、あれなら好いと、二度程繰り返した。其内又号鐘が鳴つた。