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三四郎 九の六

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三四郎 九の六

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夏目金之助

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 三四郎は其夕方野々宮さんの所へ出掛けたが、時間がまだ少し早過ぎるので、散歩かた/″\四丁目迄来て、襯衣を買ひに大きな唐物屋へ入つた。小僧が奥から色々持つて来たのを撫でゝ見たり、広げて見たりして、容易に買はない。訳もなく鷹揚に構へてゐると、偶然美禰子とよし子が連れ立つて香水を買ひに来た。あらと云つて挨拶をした後で、美禰子が、

「先達ては難有う」と礼を述べた。三四郎には此御礼の意味が明らかに解つた。美禰子から金を借りた翌日もう一遍訪問して余分をすぐに返すべき所を、一先見合せた代りに、二日ばかり待つて、三四郎は丁寧な礼状を美禰子に送つた。

 手紙の文句は、書いた人の、書いた当時の気分を素直に表はしたものではあるが、無論書き過ぎてゐる。三四郎は出来る丈の言葉を層々と排列して感謝の意を熱烈に致した。普通のものから見れば殆んど借金の礼状とは思はれない位に、湯気の立つたものである。然し感謝以外には、何にも書いてない。夫だから、自然の勢、感謝が感謝以上になつたのでもある。三四郎は、此手紙を郵函に入れるとき、時を移さぬ美禰子の返事を予期してゐた。所が折角の封書はたゞ行つた儘である。夫から美禰子に逢ふ機会は今日迄なかつた。三四郎はこの微弱なる「此間は難有う」といふ反響に対して、確乎した返事をする勇気も出なかつた。大な襯衣を両手で眼の先へ広げて眺めながら、よし子が居るからあゝ冷淡なんだらうかと考へた。それから此襯衣も此女の金で買うんだなと考へた。小僧はどれになさいますと催促した。

 二人の女は笑ひながら傍へ来て、一所に襯衣を見て呉れた。仕舞に、よし子が「是になさい」と云つた。三四郎はそれにした。今度は三四郎の方が香水の相談を受けた。一向分らない。ヘリオトロープと書いてある罎を持つて、好加減に、是はどうですと云ふと、美禰子が、「それに為ませう」とすぐ極めた。三四郎は気の毒な位であつた。

 表へ出て分れやうとすると、女の方が互に御辞儀を始めた。よし子が「ぢや行つて来てよ」と云ふと、美禰子が「御早く……」と云つてゐる。聞いて見て、妹が兄の下宿へ行く所だといふ事が解つた。三四郎は又奇麗な女と二人連で追分の方へ歩くべき宵となつた。日はまだ全く落ちてゐない。

 三四郎はよし子と一所に歩くよりは、よし子と一所に野々宮の下宿で落ち合はねばならぬ機会を聊か迷惑に感じた。いつその事今夜は家へ帰つて、又出直さうかと考へた。然し、与次郎の所謂御談義を聞くには、よし子が傍に居て呉れる方が便利かも知れない。まさか人の前で、母から、斯ういふ依頼があつたと、遠慮なしの注意を与へる訳はなからう。ことに依ると、たゞ金を受取る丈で済むかも解らない。――三四郎は腹の中で、一寸狡い決心をした。

「僕も野々宮さんの所へ行くところです」

「さう。御遊びに?」

「いえ、少し用があるんです。あなたは遊びですか」

「いゝえ、私も御用なの」

 両方が同じ様な事を聞いて、同じ様な答を得た。しかも両方共迷惑を感じてゐる気色が更にない。三四郎は念の為め、邪魔ぢやないかと尋ねて見た。些とも邪魔にはならないさうである。女は言葉で邪魔を否定した許ではない。顔では寧ろ何故そんな事を質問するかと驚ろいてゐる。三四郎は店先の瓦斯の光で、女の黒い眼のなかに、其驚きを認めたと思つた。事実としては、たゞ大きく黒く見えた許である。

「イオリンを買ひましたか」

「何うして御存じ」

 三四郎は返答に窮した。女は頓着なく、すぐ、斯う云つた。

「いくら兄さんに左う云つても、たゞ買つてやる、買つてやると云ふ許で、些とも買つて呉れなかつたんですの」

 三四郎は腹の中で、野々宮よりも広田よりも、寧ろ与次郎を非難した。