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三四郎 九の七
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夏目金之助
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二人は追分の通りを細い露路に折れた。折れると中に家が沢山ある。暗い路を戸毎の軒燈が照らしてゐる。其軒燈の一つの前に留つた。野々宮は此奥にゐる。
三四郎の下宿とは殆んど一丁程の距離である。野々宮が此所へ移つてから、三四郎は二三度訪問した事がある。野々宮の部屋は広い廊下を突き当つて、二段ばかり真直に上ると、左手に離れた二間である。南向に余所の広い庭を殆んど縁の下に控へて、昼も夜も至極静かである。此離座敷に立て籠つた野々宮さんを見た時、成程家を畳んで、下宿をするのも悪い思付ではなかつたと、始めて来た時から、感心した位、居心地の好い所である。其時野々宮さんは廊下へ下りて、下から自分の部屋の軒を見上げて、一寸見給へ藁葺だと云つた。成程珍らしく屋根に瓦を置いてなかつた。
今日は夜だから、屋根は無論見えないが、部屋の中には電燈が点いてゐる。三四郎は電燈を見るや否や藁葺を思ひ出した。さうして可笑しくなつた。
「妙な御客が落ち合つたな。入口で逢つたのか」と野々宮さんが妹に聞いてゐる。妹は然らざる旨を説明してゐる。序に三四郎の様な襯衣を買つたら好からうと助言してゐる。夫から、此間のイオリンは和製で音が悪くつて不可ない、買ふのを是迄延期したのだから、もう少し良いのと買ひ易へて呉れと頼んでゐる。責めて美禰子さん位のなら我慢すると云つてゐる。其外似たり寄つたりの駄々をしきりに捏ねてゐる。野々宮さんは別段怖い顔もせず、と云つて、優しい言葉も掛けず、たゞ左うか/\と聞いてゐる。
三四郎は此間何にも云はずにゐた。よし子は愚な事ばかり述べる。且つ少しも遠慮をしない。それが馬鹿とも思へなければ、我儘とも受取れない。兄との応対を傍にゐて聞いてゐると、広い日当の好い畠へ出た様な心持がする。三四郎は来るべき御談義の事を丸で忘れて仕舞つた。其時突然驚ろかされた。
「あゝ、私忘れてゐた。美禰子さんの御言伝があつてよ」
「左うか」
「嬉しいでせう。嬉しくなくつて?」
野々宮さんは痒い様な顔をした。さうして、三四郎の方を向いた。
「僕の妹は馬鹿ですね」と云つた。三四郎は仕方なしに、たゞ笑つてゐた。
「馬鹿ぢやないわ。ねえ、小川さん」
三四郎は又笑つてゐた。腹の中ではもう笑ふのが厭になつた。
「美禰子さんがね、兄さんに文芸協会の演芸会に連れて行つて頂戴つて」
「里見さんと一所に行つたら宜からう」
「御用が有るんですつて」
「御前も行くのか」
「無論だわ」
野々宮さんは行くとも行かないとも答へなかつた。又三四郎の方を向いて、今夜妹を呼んだのは真面目な用のあるのだのに、あんな呑気ばかり云つてゐて困ると話した。聞いて見ると、学者丈あつて、存外淡泊である。よし子に縁談の口がある。国へさう云つてやつたら、両親も異存はないと返事をして来た。夫に就て本人の意見をよく確める必要が起つたのだと云ふ。三四郎はたゞ結構ですと答へて、成るべく早く自分の方を片付けて帰らうとした。そこで、
「母からあなたに御面倒を願つたさうで」と切り出した。野々宮さんは、
「何、大して面倒でもありませんがね」とすぐに机の抽出から、預かつたものを出して、三四郎に渡した。