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三四郎 十の四
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夏目金之助
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「又苦しくなつた様ですね」
女は何にも云はずに、すぐ姿勢を崩して、傍に置いた安楽椅子へ落ちる様にとんと腰を卸した。其時白い歯が又光つた。さうして動く時の袖と共に三四郎を見た。其眼は流星の様に三四郎の眉間を通り越して行つた。
原口さんは丸卓の傍迄来て、三四郎に、
「何うです」と云ひながら、燐寸を擦つて、先刻の烟草に火を付けて、再び口に啣へた。大きな木の雁首を指で抑へて、二吹許り濃い烟を髭の中から出したが、やがて又丸い脊中を向けて画に近付いた。勝手な所を自由に塗つてゐる。
絵は無論仕上つてゐないものだらう。けれども何処も彼所も万遍なく絵の具が塗つてあるから、素人の三四郎が見ると、中々立派である。旨いか無味いか無論分らない。技巧の批評の出来ない三四郎には、たゞ技巧の齎らす感じ丈がある。それすら、経験がないから、頗る正鵠を失してゐるらしい。芸術の影響に全然無頓着な人間でないと自を証拠立てる丈でも三四郎は風流人である。
三四郎が見ると、此画は一体にぱつとしてゐる。何だか一面に粉が吹いて、光沢のない日光に当つた様に思はれる。影の所でも黒くはない。寧ろ薄い紫が射してゐる。三四郎は此画を見て、何となく軽快な感じがした。浮いた調子は猪牙船に乗つた心持がある。それでも何処か落ち付いてゐる。剣呑でない。苦つた所、渋つた所、毒々しい所は無論ない。三四郎は原口さんらしい画だと思つた。すると原口さんは無雑作に画筆を使ひながら、こんな事を云ふ。
「小川さん面白い話がある。僕の知つた男にね、細君が厭になつて離縁を請求したものがある。所が細君が承知をしないで、私は縁あつて、此家へ方付いたものですから、仮令あなたが御厭でも私は決して出て参りません」
原口さんは其所で一寸画を離れて、画筆の結果を眺めてゐたが、今度は、美禰子に向つて、
「里見さん。あなたが単衣を着て呉れないものだから、着物が描き悪くつて困る。丸で好加減にやるんだから、少し大胆過ぎますね」
「御気の毒さま」と美禰子が云つた。
原口さんは返事もせずに又画面へ近寄つた。「それでね、細君の御尻が離縁するには余り重くあつたものだから、友人が細君に向つて、斯う云つたんだとさ。出るのが厭なら、出ないでも好い。何時迄でも家にゐるが好い。其代り己の方が出るから。――里見さん一寸立つて見て下さい。団扇は何うでも好い。ただ立てば。さう。難有う。――細君が、私が家に居つても、貴方が出て御仕舞になれば、後が困るぢやありませんかと云ふと、何構はないさ、御前は勝手に入夫でもしたら宜からうと答へたんだつて」
「それから、何うなりました」と三四郎が聞いた。原口さんは、語るに足りないと思つたものか、まだ後をつけた。
「何うもならないのさ。だから結婚は考へ物だよ。離合聚散、共に自由にならない。広田先生を見給へ、野々宮さんを見給へ、里見恭助君を見給へ、序に僕を見給へ。みんな結婚をしてゐない。女が偉くなると、かう云ふ独身ものが沢山出来て来る。だから社会の原則は、独身ものが、出来得ない程度内に於て、女が偉くならなくつちや駄目だね」
「でも兄は近々結婚致しますよ」
「おや、左うですか。すると貴方は何うなります」
「存じません」
三四郎は美禰子を見た。美禰子も三四郎を見て笑つた。原口さん丈は画に向いてゐる。「存じません。存じません――ぢや」と画筆を動かした。