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三四郎 十の三
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夏目金之助
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玄関には美禰子の下駄が揃へてあつた。鼻緒の二本が右左で色が違ふ。それで能く覚えてゐる。今仕事中だが、可ければ上れと云ふ小女の取次に尾いて、画室へ這入つた。広い部屋である。細長く南北に延びた床の上は、画家らしく、取り乱れてゐる。先づ一部分には絨氈が敷いてある。それが部屋の大きさに較べると、丸で釣り合が取れないから、敷物として敷いたといふよりは、色の好い、模様の雅な織物として放りだした様に見える。離れて向に置いた大きな虎の皮も其通り、坐る為の、設けの座とは受け取れない。絨氈とは不調和な位置に筋違に尾を長く曳いてゐる。砂を錬り固めた様な大きな甕がある。其中から矢が二本出てゐる。鼠色の羽根と羽根の間が金箔で強く光る。其傍に鎧もあつた。三四郎は卯の花縅しと云ふのだらうと思つた。向ふ側の隅にぱつと眼を射るものがある。紫の裾模様の小袖に金糸の刺繍が見える。袖から袖へ幔幕の綱を通して、虫干の時の様に釣るした。袖は丸くて短かい。是が元禄かと三四郎も気が付いた。其外には画が沢山ある。壁に掛けたの許でも大小合せると余程になる。額縁を附けない下画といふ様なものは、重ねて巻いた端が、巻き崩れて、小口をしだらなく露はした。
描かれつゝある人の肖像は、此彩色の眼を乱す間にある。描かれつゝある人は、突き当りの正面に団扇を翳して立つた。描く男は丸い脊をぐるりと返して、調色板を持つた儘、三四郎に向つた。口に太い烟管を啣へてゐる。
「遣つて来たね」と云つて烟管を口から取つて、小さい丸卓の上に置いた。燐寸と灰皿が載つてゐる。椅子もある。
「掛け給へ。――あれだ」と云つて、描き掛けた画布の方を見た。長さは六尺もある。三四郎はたゞ、
「成程大きなものですな」と云つた。原口さんは、耳にも留めない風で、
「うん、中々」と独言の様に、髪の毛と、背景の境の所を塗り始めた。三四郎は此時漸く美禰子の方を見た。すると女の翳した団扇の陰で、白い歯がかすかに光つた。
それから二三分は全く静かになつた。部屋は煖炉で温めてある。今日は外面でも、さう寒くはない。風は死に尽した。枯れた樹が音なく冬の日に包まれて立つてゐる。三四郎は画室へ導かれた時、霞の中へ這入つた様な気がした。丸卓に肘を持たして、此静かさの夜に勝る境に、憚りなき精神を溺れしめた。此静かさのうちに、美禰子がゐる。美禰子の影が次第に出来上りつゝある。肥つた画工の画筆丈が動く。夫も眼に動く丈で、耳には静かである。肥つた画工も動く事がある。然し足音はしない。
静かなものに封じ込められた美禰子は全く動かない。団扇を翳して立つた姿その儘が既に画である。三四郎から見ると、原口さんは、美禰子を写してゐるのではない。不可思議に奥行のある画から、精出して、其奥行丈を落して、普通の画に美禰子を描き直してゐるのである。にも拘はらず第二の美禰子は、この静さのうちに、次第と第一に近づいて来る。三四郎には、此二人の美禰子の間に、時計の音に触れない、静かな長い時間が含まれてゐる様に思はれた。其時間が画家の意識にさへ上らない程音無しく経つに従つて、第二の美禰子が漸やく追ひ付いて来る。もう少しで双方がぴたりと出合つて一つに収まると云ふ所で、時の流れが急に向を換へて永久の中に注いで仕舞ふ。原口さんの画筆は夫より先には進めない。三四郎は其所迄跟いて行つて、気が付いて、不図美禰子を見た。美禰子は依然として動かずに居る。三四郎の頭は此静かな空気のうちで覚えず動いてゐた。酔つた心持である。すると突然原口さんが笑ひ出した。