title
彼岸過迄 第二十四章
author
夏目漱石
body
鏡がそれからそれへと順々に回った時、叔父はこりゃ鮮やかだね、何でも見えると非道く感心していた。叔父は人間社会の事に大抵通じているせいか、万に高を括る癖に、こういう自然界の現象に襲われるとじき驚ろく性質なのである。自分は千代子から渡された鏡を受け取って、最後に一枚の硝子越に海の底を眺めたが、かねて想像したと少しも異なるところのない極めて平凡な海の底が眼に入っただけである。そこには小さい岩が多少の凸凹を描いて一面に連なる間に、蒼黒い藻草が限りなく蔓延っていた。その藻草があたかも生温るい風に嬲られるように、波のうねりで静かにまた永久に細長い茎を前後に揺かした。
「市さん蛸が見えて」
「見えない」
僕は顔を上げた。千代子はまた首を突込んだ。彼女の被っていたへなへなの麦藁帽子の縁が水に浸って、船頭に操つられる船の勢に逆らうたびに、可憐な波をちょろちょろ起した。僕はその後に見える彼女の黒い髪と白い頸筋を、その顔よりも美くしく眺めていた。
「千代ちゃんには、目付かったかい」
「駄目よ。蛸なんかどこにも泳いでいやしないわ」
「よっぽど慣れないとなかなか目付ける訳に行かないんだそうです」
これは高木が千代子のために説明してくれた言葉であった。彼女は両手で桶を抑えたまま、船縁から乗り出した身体を高木の方へ捻じ曲げて、「道理で見えないのね」といったが、そのまま水に戯れるように、両手で抑えた桶をぶくぶく動かしていた。百代子が向うの方から御姉さんと呼んだ。吾一は居所も分らない蛸をむやみに突き廻した。突くには二間ばかりの細長い女竹の先に一種の穂先を着けた変なものを用いるのである。船頭は桶を歯で銜えて、片手に棹を使いながら、船の動いて行くうちに、蛸の居所を探しあてるや否や、その長い竹で巧みにぐにゃぐにゃした怪物を突き刺した。
蛸は船頭一人の手で、何疋も船の中に上がったが、いずれも同じくらいな大きさで、これはと驚ろくほどのものはなかった。始めのうちこそ皆珍らしがって、捕れるたびに騒いで見たが、しまいにはさすが元気な叔父も少し飽きて来たと見えて、「こう蛸ばかり捕っても仕方がないね」と云い出した。高木は煙草を吹かしながら、舟底にかたまった獲物を眺め始めた。
「千代ちゃん、蛸の泳いでるところを見た事がありますか。ちょっと来て御覧なさい、よっぽど妙ですよ」
高木はこう云って千代子を招いたが、傍に坐っている僕の顔を見た時、「須永さんどうです、蛸が泳いでいますよ」とつけ加えた。僕は「そうですか。面白いでしょう」と答えたなり直席を立とうともしなかった。千代子はどれと云いながら高木の傍へ行って新らしい座を占めた。僕は故の所から彼女にまだ泳いでるかと尋ねた。
「ええ面白いわ、早く来て御覧なさい」
蛸は八本の足を真直に揃えて、細長い身体を一気にすっすっと区切りつつ、水の中を一直線に船板に突き当るまで進んで行くのであった。中には烏賊のように黒い墨を吐くのも交っていた。僕は中腰になってちょっとその光景を覗いたなり故の席に戻ったが、千代子はそれぎり高木の傍を離れなかった。
叔父は船頭に向って蛸はもうたくさんだと云った。船頭は帰るのかと聞いた。向うの方に大きな竹籃のようなものが二つ三つ浮いていたので、蛸ばかりで淋しいと思った叔父は、船をその一つの側へ漕ぎ寄せさした。申し合せたように、舟中立ち上って籃の内を覗くと、七八寸もあろうと云う魚が、縦横に狭い水の中を馳け廻っていた。その或ものは水の色を離れない蒼い光を鱗に帯びて、自分の勢で前後左右に作る波を肉の裏に透すように輝やいた。
「一つ掬って御覧なさい」
高木は大きな掬網の柄を千代子に握らした。千代子は面白半分それを受取って水の中で動かそうとしたが、動きそうにもしないので、高木は己れの手を添えて二人いっしょに籃の中を覚束なく攪き廻した。しかし魚は掬えるどころではなかったので、千代子はすぐそれを船頭に返した。船頭は同じ掬網で叔父の命ずるままに何疋でも水から上へ択り出した。僕らは危怪な蛸の単調を破るべく、鶏魚、鱸、黒鯛の変化を喜こんでまた岸に上った。