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彼岸過迄 第二十三章

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彼岸過迄 第二十三章

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夏目漱石

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 船に乗るためにみんなが揃って浜に下り立ったのはそれから約一時間の後であった。浜には何の祭の前か過か、深く砂の中に埋められた高い幟の棒が二本僕の眼を惹いた。吾一はどこからか磯へ打ち上げた枯枝を拾って来て、広い砂の上に大きな字と大きな顔をいくつも並べた。

「さあ御乗り」と坊主頭の船頭が云ったので、六人は順序なくごたごたに船縁から這い上った。偶然の結果千代子と僕は後のものに押されて、仕切りの付いた舳の方に二人膝を突き合せて坐った。叔父は一番先に、胴の間というのか、真中の広い所に、家長らしく胡坐をかいてしまった。そうして高木をその日の客として取り扱うつもりか、さあどうぞと案内したので、彼は否応なしに叔父の傍に座を占めた。百代子と吾一は彼らの次の間と云ったような仕切の中に船頭といっしょに這入った。

「どうですこっちが空いてますからいらっしゃいませんか」と高木はすぐ後の百代子を顧みた。百代子はありがとうといったきり席を移さなかった。僕は始めから千代子と一つ薄縁の上に坐るのを快く思わなかった。僕の高木に対して嫉妬を起した事はすでに明かに自白しておいた。その嫉妬は程度において昨日も今日も同じだったかも知れないが、それと共に競争心はいまだかつて微塵も僕の胸に萌さなかったのである。僕も男だからこれから先いつどんな女を的に劇烈な恋に陥らないとも限らない。しかし僕は断言する。もしその恋と同じ度合の劇烈な競争をあえてしなければ思う人が手に入らないなら、僕はどんな苦痛と犠牲を忍んでも、超然と手を懐ろにして恋人を見棄ててしまうつもりでいる。男らしくないとも勇気に乏しいとも、意志が薄弱だとも、他から評したらどうにでも評されるだろう。けれどもそれほど切ない競争をしなければわがものにできにくいほど、どっちへ動いても好い女なら、それほど切ない競争に価しない女だとしか僕には認められないのである。僕には自分に靡かない女を無理に抱く喜こびよりは、相手の恋を自由の野に放ってやった時の男らしい気分で、わが失恋の瘡痕を淋しく見つめている方が、どのくらい良心に対して満足が多いか分らないのである。

 僕は千代子にこう云った。――

「千代ちゃん行っちゃどうだ。あっちの方が広くって楽なようだから」

「なぜ、ここにいちゃ邪魔なの」

 千代子はそう云ったまま動こうとしなかった。僕には高木がいるからあっちへ行けというのだというような説明は、露骨と聞こえるにしろ、厭味と受取られるにしろ、全く口にする勇気は出なかった。ただ彼女からこう云われた僕の胸に、一種の嬉しさが閃めいたのは、口と腹とどう裏表になっているかを曝露する好い証拠で、自分で自分の薄弱な性情を自覚しない僕には痛い打撃であった。

 昨日会った時よりは気のせいか少し控目になったように見える高木は、千代子と僕の間に起ったこの問答を聞きながら知らぬふりをしていた。船が磯を離れたとき、彼は「好い案排に空模様が直って来ました。これじゃ日がかんかん照るよりかえって結構です。船遊びには持って来いという御天気で」というような事を叔父と話し合ったりした。叔父は突然大きな声を出して、「船頭、いったい何を捕るんだ」と聞いた。叔父もその他のものも、この時まで何を捕るんだかいっこう知らずにいたのである。坊主頭の船頭は、粗末な言葉で、蛸を捕るんだと答えた。この奇抜な返事には千代子も百代子も驚ろくよりもおかしかったと見えて、たちまち声を出して笑った。

「蛸はどこにいるんだ」と叔父がまた聞いた。

「ここいらにいるんだ」と船頭はまた答えた。

 そうして湯屋の留桶を少し深くしたような小判形の桶の底に、硝子を張ったものを水に伏せて、その中に顔を突込むように押し込みながら、海の底を覗き出した。船頭はこの妙な道具を鏡と称えて、二つ三つ余分に持ち合わせたのを、すぐ僕らに貸してくれた。第一にそれを利用したのは船頭の傍に座を取った吾一と百代子であった。