← 作品

彼岸過迄 第三十四章

title

彼岸過迄 第三十四章

author

夏目漱石

body

 それはほかでもない。しばらく千代子と話しているうちに、彼女が単に頭を見せに上って来たばかりでなく、今日これから鎌倉へ帰るので、そのさようならを云いにちょっと顔を出したのだと云う事を知った時、僕はつい用意の足りない躓ずき方をしたのである。

「早いね。もう帰るのかい」と僕が云った。

「早かないわ、もう一晩泊ったんだから。だけどこんな頭をして帰ると何だかおかしいわね、御嫁にでも行くようで」と千代子が云った。

「まだみんな鎌倉にいるのかい」と僕が聞いた。

「ええ。なぜ」と千代子が聞き返した。

「高木さんも」と僕がまた聞いた。

 高木という名前は今まで千代子も口にせず、僕も話頭に上すのをわざと憚かっていたのである。が、何かの機会で、平生通りの打ち解けた遠慮のない気分が復活したので、その中に引き込まれた矢先、つい何の気もつかずに使ってしまったのである。僕はふらふらとこの問をかけて彼女の顔を見た時たちまち後悔した。

 僕が煮え切らないまた捌けない男として彼女から一種の軽蔑を受けている事は、僕のとうに話した通りで、実を云えば二人の交際はこの黙許を認め合った上の親しみに過ぎなかった。その代り千代子が常に畏れる点を、幸にして僕はただ一つ有っていた。それは僕の無口である。彼女のように万事明けっ放しに腹を見せなければ気のすまない者から云うと、いつでも、しんねりむっつりと構えている僕などの態度は、けっして気に入るはずがないのだが、そこにまた妙な見透かせない心の存在が仄めくので、彼女は昔から僕を全然知り抜く事のできない、したがって軽蔑しながらもどこかに恐ろしいところを有った男として、ある意味の尊敬を払っていたのである。これは公けにこそ明言しないが、向うでも腹の底で正式に認めるし、僕も冥々のうちに彼女から僕の権利として要求していた事実である。

 ところが偶然高木の名前を口にした時、僕はたちまちこの尊敬を永久千代子に奪い返されたような心持がした。と云うのは、「高木さんも」という僕の問を聞いた千代子の表情が急に変化したのである。僕はそれを強ちに勝利の表情とは認めたくない。けれども彼女の眼のうちに、今まで僕がいまだかつて彼女に見出した試しのない、一種の侮蔑が輝やいたのは疑いもない事実であった。僕は予期しない瞬間に、平手で横面を力任せに打たれた人のごとくにぴたりと止まった。

「あなたそれほど高木さんの事が気になるの」

 彼女はこう云って、僕が両手で耳を抑えたいくらいな高笑いをした。僕はその時鋭どい侮辱を感じた。けれどもとっさの場合何という返事も出し得なかった。

「あなたは卑怯だ」と彼女が次に云った。この突然な形容詞にも僕は全く驚ろかされた。僕は、御前こそ卑怯だ、呼ばないでもの所へわざわざ人を呼びつけて、と云ってやりたかった。けれども年弱な女に対して、向うと同じ程度の激語を使うのはまだ早過ぎると思って我慢した。千代子もそれなり黙った。僕はようやくにして「なぜ」というわずか二字の問をかけた。すると千代子の濃い眉が動いた。彼女は、僕自身で僕の卑怯な意味を充分自覚していながら、たまたま他の指摘を受けると、自分の弱点を相手に隠すために、取り繕ろって空っとぼけるものとこの問を解釈したらしい。

「なぜって、あなた自分でよく解ってるじゃありませんか」

「解らないから聞かしておくれ」と僕が云った。僕は階下に母を控えているし、感情に訴える若い女の気質もよく呑み込んだつもりでいたから、できるだけ相手の気を抜いて話を落ちつかせるために、その時の僕としては、ほとんど無理なほどの、低いかつ緩い調子を取ったのであるが、それがかえって千代子の気に入らなかったと見える。

「それが解らなければあなた馬鹿よ」

 僕はおそらく平生より蒼い顔をしたろうと思う。自分ではただ眼を千代子の上にじっと据えた事だけを記憶している。その時何物も恐れない千代子の眼が、僕の視線と無言のうちに行き合って、両方共しばらくそこに止まっていた事も記憶している。