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彼岸過迄 第三十五章

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彼岸過迄 第三十五章

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夏目漱石

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「千代ちゃんのような活溌な人から見たら、僕見たいに引込思案なものは無論卑怯なんだろう。僕は思った事をすぐ口へ出したり、またはそのまま所作にあらわしたりする勇気のない、極めて因循な男なんだから。その点で卑怯だと云うなら云われても仕方がないが……」

「そんな事を誰が卑怯だと云うもんですか」

「しかし軽蔑はしているだろう。僕はちゃんと知ってる」

「あなたこそあたしを軽蔑しているじゃありませんか。あたしの方がよっぽどよく知ってるわ」

 僕はことさらに彼女のこの言葉を肯定する必要を認めなかったから、わざと返事を控えた。

「あなたはあたしを学問のない、理窟の解らない、取るに足らない女だと思って、腹の中で馬鹿にし切ってるんです」

「それは御前が僕をぐずと見縊ってるのと同じ事だよ。僕は御前から卑怯と云われても構わないつもりだが、いやしくも徳義上の意味で卑怯というなら、そりゃ御前の方が間違っている。僕は少なくとも千代ちゃんに関係ある事柄について、道徳上卑怯なふるまいをした覚はないはずだ。ぐずとか煮え切らないとかいうべきところに、卑怯という言葉を使われては、何だか道義的勇気を欠いた――というより、徳義を解しない下劣な人物のように聞えてはなはだ心持が悪いから訂正して貰いたい。それとも今いった意味で、僕が何か千代ちゃんに対してすまない事でもしたのなら遠慮なく話して貰おう」

「じゃ卑怯の意味を話して上げます」と云って千代子は泣き出した。僕はこれまで千代子を自分より強い女と認めていた。けれども彼女の強さは単に優しい一図から出た女気の凝り塊りとのみ解釈していた。ところが今僕の前に現われた彼女は、ただ勝気に充ちただけの、世間にありふれた、俗っぽい婦人としか見えなかった。僕は心を動かすところなく、彼女の涙の間からいかなる説明が出るだろうと待ち設けた。彼女の唇を洩れるものは、自己の体面を飾る強弁よりほかに何もあるはずがないと、僕は固く信じていたからである。彼女は濡れた睫毛を二三度繁叩いた。

「あなたはあたしを御転婆の馬鹿だと思って始終冷笑しているんです。あなたはあたしを……愛していないんです。つまりあなたはあたしと結婚なさる気が……」

「そりゃ千代ちゃんの方だって……」

「まあ御聞きなさい。そんな事は御互だと云うんでしょう。そんならそれで宜うござんす。何も貰って下さいとは云やしません。ただなぜ愛してもいず、細君にもしようと思っていないあたしに対して……」

 彼女はここへ来て急に口籠った。不敏な僕はその後へ何が出て来るのか、まだ覚れなかった。「御前に対して」と半ば彼女を促がすように問をかけた。彼女は突然物を衝き破った風に、「なぜ嫉妬なさるんです」と云い切って、前よりは劇しく泣き出した。僕はさっと血が顔に上る時の熱りを両方の頬に感じた。彼女はほとんどそれを注意しないかのごとくに見えた。

「あなたは卑怯です、徳義的に卑怯です。あたしが叔母さんとあなたを鎌倉へ招待した料簡さえあなたはすでに疑っていらっしゃる。それがすでに卑怯です。が、それは問題じゃありません。あなたは他の招待に応じておきながら、なぜ平生のように愉快にして下さる事ができないんです。あたしはあなたを招待したために恥を掻いたも同じ事です。あなたはあたしの宅の客に侮辱を与えた結果、あたしにも侮辱を与えています」

「侮辱を与えた覚はない」

「あります。言葉や仕打はどうでも構わないんです。あなたの態度が侮辱を与えているんです。態度が与えていないでも、あなたの心が与えているんです」

「そんな立ち入った批評を受ける義務は僕にないよ」

「男は卑怯だから、そう云う下らない挨拶ができるんです。高木さんは紳士だからあなたを容れる雅量がいくらでもあるのに、あなたは高木さんを容れる事がけっしてできない。卑怯だからです」