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彼岸過迄 第二十章

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彼岸過迄 第二十章

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夏目漱石

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 電話口へ出て見ると案外にも主人の声で、今直来る事ができるかという簡単な問い合わせであった。敬太郎はすぐ出ますと答えたが、それだけで電話を切るのは何となくぶっきらぼう過ぎて愛嬌が足りない気がするので、少し色を着けるために、須永君から何か御話でもございましたかと聞いて見た。すると相手は、ええ市蔵から御希望を通知して来たのですが、手数だから直接に私の方で御都合を伺がいました。じゃ御待ち申しますから、直どうぞ。と云ってそれなり引込んでしまった。敬太郎はまた例の袴を穿きながら、今度こそ様子が好さそうだと思った。それからこの間買ったばかりの中折を帽子掛から取ると、未来に富んだ顔に生気を漲ぎらして快豁に表へ出た。外には白い霜を一度に摧いた日が、木枯しにも吹き捲くられずに、穏やかな往来をおっとりと一面に照らしていた。敬太郎はその中を突切る電車の上で、光を割いて進むような感じがした。

 田口の玄関はこの間と違って蕭条りしていた。取次に袴を着けた例の書生が現われた時は、少しきまりが悪かったが、まさかせんだっては失礼しましたとも云えないので、素知らぬ顔をして叮嚀に来意を告げた。書生は敬太郎を覚えていたのか、いないのか、ただはあと云ったなり名刺を受取って奥へ這入ったが、やがて出て来て、どうぞこちらへと応接間へ案内した。敬太郎は取次の揃えてくれた上靴を穿いて、御客らしく通るには通ったが、四五脚ある椅子のどれへ腰をかけていいかちょっと迷った。一番小さいのにさえきめておけば間違はあるまいという謙遜から、彼は腰の高い肱懸も装飾もつかない最も軽そうなのを択って、わざと位置の悪い所へ席を占めた。

 やがて主人が出て来た。敬太郎は使い慣れない切口上を使って、初対面の挨拶やら会見の礼やらを述べると、主人は軽くそれを聞き流すだけで、ただはあはあと挨拶した。そうしていくら区切が来ても、いっこう何とも云ってくれなかった。彼は主人の態度に失望するほどでもなかったが、自分の言葉がそう思う通り長く続かないのに弱った。一応頭の中にある挨拶を出し切ってしまうと、後はそれぎりで、手持無沙汰と知りながら黙らなければならなかった。主人は巻莨入から敷島を一本取って、あとを心持敬太郎のいる方へ押しやった。

「市蔵からあなたの御話しは少し聞いた事もありますが、いったいどういう方を御希望なんですか」

 実を云うと、敬太郎には何という特別の希望はなかった。ただ相当の位置さえ得られればとばかり考えていたのだから、こう聞かれるとぼんやりした答よりほかにできなかった。

「すべての方面に希望を有っています」

 田口は笑い出した。そうして機嫌の好い顔つきをして、学士の数のこんなに殖えて来た今日、いくら世話をする人があろうとも、そう最初から好い地位が得られる訳のものでないという事情を懇ごろに説いて聞かせた。しかしそれは田口から改めて教わるまでもなく、敬太郎のとうから痛切に承知しているところであった。

「何でもやります」

「何でもやりますったって、まさか鉄道の切符切もできないでしょう」

「いえできます。遊んでるよりはましですから。将来の見込のあるものなら本当に何でもやります。第一遊んでいる苦痛を逃れるだけでも結構です」

「そう云う御考ならまた私の方でもよく気をつけておきましょう。直という訳にも行きますまいが」

「どうぞ。――まあ試しに使って見て下さい。あなたの御家の――と云っちゃ余り変ですが、あなたの私事にででもいいから、ちょっと使って見て下さい」

「そんな事でもして見る気がありますか」

「あります」

「それじゃ、ことに依ると何か願って見るかも知れません。いつでも構いませんか」

「ええなるべく早い方が結構です」

 敬太郎はこれで会見を切り上げて、朗らかな顔をして表へ出た。