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彼岸過迄 第二十五章

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彼岸過迄 第二十五章

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夏目漱石

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 赤い郵便函から五六間東へ下ると、白いペンキで小川町停留所と書いた鉄の柱がすぐ彼の眼に入った。ここにさえ待っていれば、たとい混雑に取り紛れて注意人物を見失うまでも、刻限に自分の部署に着いたという強味はあると考えた彼は、これだけの安心を胸に握った上、また目標の鉄の柱を離れて、四辺の光景を見廻した。彼のすぐ後には蔵造の瀬戸物屋があった。小さい盃のたくさん並んだのを箱入にして額のように仕立てたのがその軒下にかかっていた。大きな鉄製の鳥籠に、陶器でできた餌壺をいくつとなく外から括りつけたのも、そこにぶら下がっていた。その隣りは皮屋であった。眼も爪も全く生きた時のままに残した大きな虎の皮に、緋羅紗の縁を取ったのがこの店の重な装飾であった。敬太郎は琥珀に似たその虎の眼を深く見つめて立った。細長くって真白な皮でできた襟巻らしいものの先に、豆狸のような顔が付着しているのも滑稽に見えた。彼は時計を出して時間を計りながら、また次の店に移った。そうして瑪瑙で刻った透明な兎だの、紫水晶でできた角形の印材だの、翡翠の根懸だの孔雀石の緒締だのの、金の指輪やリンクスと共に、美くしく並んでいる宝石商の硝子窓を覗いた。

 敬太郎はこうして店から店を順々に見ながら、つい天下堂の前を通り越して唐木細工の店先まで来た。その時後から来た電車が、突然自分の歩いている往来の向う側でとまったので、もしやという心から、筋違に通を横切って細い横町の角にある唐物屋の傍へ近寄ると、そこにも一本の鉄の柱に、先刻のと同じような、小川町停留所という文字が白く書いてあった。彼は念のためこの角に立って、二三台の電車を待ち合わせた。すると最初には青山というのが来た。次には九段新宿というのが来た。が、いずれも万世橋の方から真直に進んで来るので彼はようやく安心した。これでよもやの懸念もなくなったから、そろそろ元の位地に帰ろうというつもりで、彼は足の向を更えにかかった途端に、南から来た一台がぐるりと美土代町の角を回転して、また敬太郎の立っている傍でとまった。彼はその電車の運転手の頭の上に黒く掲げられた巣鴨の二字を読んだ時、始めて自分の不注意に気がついた。三田方面から丸の内を抜けて小川町で降りるには、神田橋の大通りを真直に突き当って、左へ曲っても今敬太郎の立っている停留所で降りられるし、また右へ曲っても先刻彼の検分しておいた瀬戸物屋の前で降りられるのである。そうして両方とも同じ小川町停留所と白いペンキで書いてある以上は、自分がこれから後を跟けようという黒い中折の男は、どっちへ降りるのだか、彼にはまるで見当がつかない事になるのである。眼を走らせて、二本の赤い鉄柱の距離を目分量で測って見ると、一町には足りないくらいだが、いくら眼と鼻の間だからと云って、一方だけを専門にしてさえ覚束ない彼の監視力に対して、両方共手落なく見張り終せる手際を要求するのは、どれほど自分の敏腕を高く見積りたい今の敬太郎にも絶対の不可能であった。彼は自分の住居っている地理上の関係から、常に本郷三田間を連絡する電車にばかり乗っていたため、巣鴨方面から水道橋を通って同じく三田に続く線路の存在に、今が今まで気がつかずにいた自己の迂闊を深く後悔した。

 彼は困却の余りふと思いついた窮策として、須永の助力でも借りに行こうかと考えた。しかし時計はもう四時七分前に逼っていた。ついこの裏通に住んでいる須永だけれども、門前まで駈けつける時間と、かい摘んで用事を呑み込ます時間を勘定に入れればとても間に合いそうにない。よしそのくらいの間は取れるとしたところで、須永に一方の見張りを頼む以上は、もし例の紳士が彼のいる方へ降りるならば、何かの手段で敬太郎に合図をしなければならない。それもこの人込の中だから、手を挙げたり手帛を振るぐらいではちょっと通じかねる。紛れもなく敬太郎に分らせようとするには、往来を驚ろかすほどな大きな声で叫ぶに限ると云ってもいいくらいなものだが、そう云う突飛なよほどな場合でも体裁を重んずる須永のような男にできるはずがない。万一我慢してやってくれたところで、こっちから駆けて行く間には、肝心の黒の中折帽を被った男の姿は見えなくなってしまわないとも云えない。――こう考えた敬太郎はやむを得ないから運を天に任せてどっちか一方の停留所だけ守ろうと決心した。