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彼岸過迄 第二十二章
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夏目漱石
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この細い石段を思い思いの服装をした六人が前後してぞろぞろ登る姿は、傍で見ていたら定めし変なものだったろうと思う。その上六人のうちで、これから何をするか明瞭した考を有っていたものは誰もないのだからはなはだ気楽である。肝心の叔父さえただ船に乗る事を知っているだけで、後は網だか釣だか、またどこまで漕いで出るのかいっこう弁別えないらしかった。百代子の後から足の力で擦り減らされて凹みの多くなった石段を踏んで行く僕はこんな無意味な行動に、己れを委ねて悔いないところを、避暑の趣とでも云うのかと思いつつ上った。同時にこの無意味な行動のうちに、意味ある劇の大切な一幕が、ある男とある女の間に暗に演ぜられつつあるのでは無かろうかと疑ぐった。そうしてその一幕の中で、自分の務めなければならない役割がもしあるとすれば、穏かな顔をした運命に、軽く翻弄される役割よりほかにあるまいと考えた。最後に何事も打算しないでただ無雑作にやって除ける叔父が、人に気のつかないうちに、この幕を完成するとしたら、彼こそ比類のない巧妙な手際を有った作者と云わなければなるまいという気を起した。僕の頭にこういう影が射した時、すぐ後から跟いて上って来る高木が、これじゃ暑くってたまらない、御免蒙って雨防衣を脱ごうと云い出した。
家は下から見たよりもなお小さくて汚なかった。戸口に杓子が一つ打ちつけてあって、それに百日風邪吉野平吉一家一同と書いてあるので、主人の名がようやく分った。それを見つけ出して、みんなに聞こえるように読んだのは、目敬い吾一の手柄であった。中を覗くと天井も壁もことごとく黒く光っていた。人間としては婆さんが一人いたぎりである。その婆さんが、今日は天気がよくないので、おおかたおいでじゃあるまいと云って早く海へ出ましたから、今浜へ下りて呼んできましょうと断わりを述べた。舟へ乗って出たのかねと叔父が聞くと、婆さんは多分あの船だろうと答えて、手で海の上を指した。靄はまだ晴れなかったけれども、先刻よりは空がだいぶ明るくなったので、沖の方は比較的判切見える中に、指された船は遠くの向うに小さく横わっていた。
「あれじゃ大変だ」
高木は携えて来た双眼鏡を覗きながらこう云った。
「随分呑気ね、迎いに行くって、どうしてあんな所へ迎に行けるんでしょう」と千代子は笑いながら、高木の手から双眼鏡を受取った。
婆さんは何直ですと答えて、草履を穿いたまま、石段を馳け下りて行った。叔父は田舎者は気楽だなと笑っていた。吾一は婆さんの後を追かけた。百代子はぼんやりして汚ない縁へ腰をおろした。僕は庭を見廻した。庭という名のもったいなく聞こえる縁先は五坪にも足りなかった。隅に無花果が一本あって、腥ぐさい空気の中に、青い葉を少しばかり茂らしていた。枝にはまだ熟しない実が云訳ほど結って、その一本の股の所に、空の虫籠がかかっていた。その下には瘠せた鶏が二三羽むやみに爪を立てた地面の中を餓えた嘴でつついていた。僕はその傍に伏せてある鉄網の鳥籠らしいものを眺めて、その恰好がちょうど仏手柑のごとく不規則に歪んでいるのに一種滑稽な思いをした。すると叔父が突然、何分臭いねと云い出した。百代子は、あたしもう御魚なんかどうでも好いから、早く帰りたくなったわと心細そうな声を出した。この時まで双眼鏡で海の方を見ながら、断えず千代子と話していた高木はすぐ後を振り返った。
「何をしているだろう。ちょっと行って様子を見て来ましょう」
彼はそう云いながら、手に持った雨外套と双眼鏡を置くために後の縁を顧みた。傍に立った千代子は高木の動かない前に手を出した。
「こっちへ御出しなさい。持ってるから」
そうして高木から二つの品を受け取った時、彼女は改めてまた彼の半袖姿を見て笑いながら、「とうとう蛮殻になったのね」と評した。高木はただ苦笑しただけで、すぐ浜の方へ下りて行った。僕はさも運動家らしく発達した彼の肩の肉が、急いで石段を下りるために手を振るごとに動く様を後から無言のまま注意して眺めた。