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明暗 第百十一章
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夏目漱石
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単に病院でお秀に出会うという事は、お延にとって意外でも何でもなかった。けれども出会った結果からいうと、また意外以上の意外に帰着した。自分に対するお秀の態度を平生から心得ていた彼女も、まさかこんな場面でその相手になろうとは思わなかった。相手になった後でも、それが偶然の廻り合せのように解釈されるだけであった。その必然性を認めるために、過去の因果を迹付けて見ようという気さえ起らなかった。この心理状態をもっと砕けた言葉で云い直すと、事件の責任は全く自分にないという事に過ぎなかった。すべてお秀が背負って立たなければならないという意味であった。したがってお延の心は存外平静であった。少くとも、良心に対して疚ましい点は容易に見出だされなかった。
この会見からお延の得た収獲は二つあった。一つは事後に起る不愉快さであった。その不愉快さのうちには、お秀を通して今後自分達の上に持ち来されそうに見える葛藤さえ織り込まれていた。彼女は充分それを切り抜けて行く覚悟をもっていた。ただしそれには、津田が飽くまで自分の肩を持ってくれなければ駄目だという条件が附帯していた。そこへ行くと彼女には七分通りの安心と、三分方の不安があった。その三分方の不安を、今日の自分が、どのくらいの程度に減らしているかは、彼女にとって重大な問題であった。少くとも今日の彼女は、夫の愛を買うために、もしくはそれを買い戻すために、できるだけの実を津田に見せたという意味で、幾分かの自信をその方面に得たつもりなのである。
これはお延自身に解っている側の消息中で、最も必要と認めなければならない一端であるが、そのほかにまだ彼女のいっこう知らない間に、自然自分の手に入るように仕組まれた収獲ができた。無論それは一時的のものに過ぎなかった。けれども当然自分の上に向けられるべき夫の猜疑の眼から、彼女は運よく免かれたのである。というのは、お秀という相手を引き受ける前の津田と、それに悩まされ出した後の彼とは、心持から云っても、意識の焦点になるべき対象から見ても、まるで違っていた。だからこの変化の強く起った際どい瞬間に姿を現わして、その変化の波を自然のままに拡げる役を勤めたお延は、吾知らず儲けものをしたのと同じ事になったのである。
彼女はなぜ岡本が強いて自分を芝居へ誘ったか、またなぜその岡本の宅へ昨日行かなければならなくなったか、そんな内情に関するすべての自分を津田の前に説明する手数を省く事ができた。むしろ自分の方から云い出したいくらいな小林の言葉についてすら、彼女は一口も語る余裕をもたなかった。お秀の帰ったあとの二人は、お秀の事で全く頭を占領されていた。
二人はそれを二人の顔つきから知った。そうして二人の顔を見合せたのは、お秀を送り出したお延が、階子段を上って、また室の入口にそのすらりとした姿を現わした刹那であった。お延は微笑した。すると津田も微笑した。そこにはほかに何にもなかった。ただ二人がいるだけであった。そうして互の微笑が互の胸の底に沈んだ。少なくともお延は久しぶりに本来の津田をそこに認めたような気がした。彼女は肉の上に浮び上ったその微笑が何の象徴であるかをほとんど知らなかった。ただ一種の恰好をとって動いた肉その物の形が、彼女には嬉しい記念であった。彼女は大事にそれを心の奥にしまい込んだ。
その時二人の微笑はにわかに変った。二人は歯を露わすまでに口を開けて、一度に声を出して笑い合った。
「驚ろいた」
お延はこう云いながらまた津田の枕元へ来て坐った。津田はむしろ落ちついて答えた。
「だから彼奴に電話なんかかけるなって云うんだ」
二人は自然お秀を問題にしなければならなかった。
「秀子さんは、まさか基督教じゃないでしょうね」
「なぜ」
「なぜでも――」
「金を置いて行ったからかい」
「そればかりじゃないのよ」
「真面目くさった説法をするからかい」
「ええまあそうよ。あたし始めてだわ。秀子さんのあんなむずかしい事をおっしゃるところを拝見したのは」
「彼奴は理窟屋だよ。つまりああ捏ね返さなければ気がすまない女なんだ」
「だってあたし始めてよ」
「お前は始めてさ。おれは何度だか分りゃしない。いったい何でもないのに高尚がるのが彼奴の癖なんだ。そうして生じい藤井の叔父の感化を受けてるのが毒になるんだ」
「どうして」
「どうしてって、藤井の叔父の傍にいて、あの叔父の議論好きなところを、始終見ていたもんだから、とうとうあんなに口が達者になっちまったのさ」
津田は馬鹿らしいという風をした。お延も苦笑した。