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明暗 第百二十五章
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夏目漱石
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お延は次に藤井から入って行こうとした。今朝この叔父の所を訪ねたというお秀の自白が、話しをそっちへ持って行くに都合のいい便利を与えた。けれどもお秀の門構は依然としてこの方面にも厳重であった。彼女は必要の起るたびに、わざわざその門の外へ出て来て、愛想よくお延に応対した。お秀がこの叔父の世話で人となった事実は、お延にもよく知れていた。彼女が精神的にその感化を受けた点もお延に解っていた。それでお延は順序としてまずこの叔父の人格やら生活やらについて、お秀の気に入りそうな言辞を弄さなければならなかった。ところがお秀から見ると、それがまた一々誇張と虚偽の響きを帯びているので、彼女は真面目に取り合う緒口をどこにも見出す事ができないのみならず、長く同じ筋道を辿って行くうちには、自然気色を悪くした様子を外に現わさなければすまなくなった。敏捷なお延は、相手を見縊り過ぎていた事に気がつくや否や、すぐ取って返した。するとお秀の方で、今度は岡本の事を喋々し始めた。お秀対藤井とちょうど同じ関係にあるその叔父は、お延にとって大事な人であると共に、お秀からいうと、親しみも何にも感じられない、あかの他人であった。したがって彼女の言葉には滑っこい皮膚があるだけで、肝心の中味に血も肉も盛られていなかった。それでもお延はお秀の手料理になるこのお世辞の返礼をさも旨そうに鵜呑にしなければならなかった。
しかし再度自分の番が廻って来た時、お延は二返目の愛嬌を手古盛りに盛り返して、悪くお秀に強いるほど愚かな女ではなかった。時機を見て器用に切り上げた彼女は、次に吉川夫人から煽って行こうとした。しかし前と同じ手段を用いて、ただ賞めそやすだけでは、同じ不成蹟に陥いるかも知れないという恐れがあった。そこで彼女は善悪の標準を度外に置いて、ただ夫人の名前だけを二人の間に点出して見た。そうしてその影響次第で後の段取をきめようと覚悟した。
彼女はお秀が自分の風呂の留守へ藤井の帰りがけに廻って来た事を知っていた。けれども藤井へ行く前に、彼女がもうすでに吉川夫人を訪問している事にはまるで想い到らなかった。しかも昨日病院で起った波瀾の結果として、彼女がわざわざそこまで足を運んでいようとは、夢にも知らなかった。この一点にかけると、津田と同じ程度に無邪気であった彼女は、津田が小林から驚ろかされたと同じ程度に、またお秀から驚ろかされなければならなかった。しかし驚ろかせられ方は二人共まるで違っていた。小林のは明らさまな事実の報告であった。お秀のは意味のありそうな無言であった。無言と共に来た薄赤い彼女の顔色であった。
最初夫人の名前がお延の唇から洩れた時、彼女は二人の間に一滴の霊薬が天から落されたような気がした。彼女はすぐその効果を眼の前に眺めた。しかし不幸にしてそれは彼女にとって何の役にも立たない効果に過ぎなかった。少くともどう利用していいか解らない効果であった。その予想外な性質は彼女をはっと思わせるだけであった。彼女は名前を口へ出すと共に、あるいはその場ですぐ失言を謝さなければならないかしらとまで考えた。
すると第二の予想外が継いで起った。お秀がちょっと顔を背けた様子を見た時に、お延はどうしても最初に受けた印象を改正しなければならなくなった。血色の変化はけっして怒りのためでないという事がその時始めて解った。年来陳腐なくらい見飽きている単純なきまりの悪さだと評するよりほかに仕方のないこの表情は、お延をさらに驚ろかさざるを得なかった。彼女はこの表情の意味をはっきり確かめた。しかしその意味の因って来るところは、お秀の説明を待たなければまた確かめられるはずがなかった。
お延がどうしようかと迷っているうちに、お秀はまるで木に竹を接いだように、突然話題を変化した。行がかり上全然今までと関係のないその話題は、三度目にまたお延を驚ろかせるに充分なくらい突飛であった。けれどもお延には自信があった。彼女はすぐそれを受けて立った。