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明暗 第百三十二章

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明暗 第百三十二章

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夏目漱石

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 津田の好奇心は動いた。想像もほぼついた。けれどもそこへ折れ曲って行く事は彼の主意に背いた。彼はただ夫人対お秀の関係を掘り返せばよかった。病気見舞を兼た夫人の用向も、無論それについての懇談にきまっていた。けれども彼女にはまた彼女に特有な趣があった。時間に制限のない彼女は、頼まれるまでもなく、機会さえあれば、他の内輪に首を突ッ込んで、なにかと眼下、ことに自分の気に入った眼下の世話を焼きたがる代りに、到るところでまた道楽本位の本性を露わして平気であった。或時の彼女はむやみに急いて事を纏めようとあせった。そうかと思うと、ある時の彼女は、また正反対であった。わざわざべんべんと引ッ張るところに、さも興味でもあるらしい様子を見せてすましていた。鼠を弄そぶ猫のようなこの時の彼女の態度が、たとい傍から見てどうあろうとも、自分では、閑散な時間に曲折した波瀾を与えるために必要な優者の特権だと解釈しているらしかった。この手にかかった時の相手には、何よりも辛防が大切であった。その代り辛防をし抜いた御礼はきっと来た。また来る事をもって彼女は相手を奨励した。のみならずそれを自分の倫理上の誇りとした。彼女と津田の間に取り換わされたこの黙契のために、津田の蒙った重大な損失が、今までにたった一つあった。その点で彼女が腹の中でいかに彼に対する責任を感じているかは、怜俐な津田の見逃すところでなかった。何事にも夫人の御意を主眼に置いて行動する彼といえども、暗にこの強味だけは恃みにしていた。しかしそれはいざという万一の場合に保留された彼の利器に過ぎなかった。平生の彼は甘んじて猫の前の鼠となって、先方の思う通りにじゃらされていなければならなかった。この際の夫人もなかなか要点へ来る前に時間を費やした。

「昨日秀子さんが来たでしょう。ここへ」

「ええ。参りました」

「延子さんも来たでしょう」

「ええ」

「今日は?」

「今日はまだ参りません」

「今にいらっしゃるんでしょう」

 津田にはどうだか分らなかった。先刻来るなという手紙を出した事も、夫人の前では云えなかった。返事を受け取らなかった勝手違も、実は気にかかっていた。

「どうですかしら」

「いらっしゃるか、いらっしゃらないか分らないの」

「ええ、よく分りません。多分来ないだろうとは思うんですが」

「大変冷淡じゃありませんか」

 夫人は嘲けるような笑い方をした。

「私がですか」

「いいえ、両方がよ」

 苦笑した津田が口を閉じるのを待って、夫人の方で口を開いた。

「延子さんと秀子さんは昨日ここで落ち合ったでしょう」

「ええ」

「それから何かあったのね、変な事が」

「別に……」

「空ッ惚けちゃいけません。あったらあったと、判然おっしゃいな、男らしく」

 夫人はようやく持前の言葉遣いと特色とを、発揮し出した。津田は挨拶に困った。黙って少し様子を見るよりほかに仕方がないと思った。

「秀子さんをさんざん苛めたって云うじゃありませんか。二人して」

「そんな事があるものですか。お秀の方が怒ってぷんぷん腹を立てて帰って行ったのです」

「そう。しかし喧嘩はしたでしょう。喧嘩といったって殴り合じゃないけれども」

「それだってお秀のいうような大袈裟なものじゃないんです」

「かも知れないけれども、多少にしろ有ったには有ったんですね」

「そりゃちょっとした行違ならございました」

「その時あなた方は二人がかりで秀子さんを苛めたでしょう」

「苛めやしません。あいつが耶蘇教のような気を吐いただけです」

「とにかくあなたがたは二人、向うは一人だったに違ないでしょう」

「そりゃそうかも知れません」

「それ御覧なさい。それが悪いじゃありませんか」

 夫人の断定には意味も理窟もなかった。したがってどこが悪いんだか津田にはいっこう通じなかった。けれどもこういう場合にこんな風になって出て来る夫人の特色は、けっして逆らえないものとして、もう津田の頭に叩き込まれていた。素直に叱られているよりほかに彼の途はなかった。

「そういうつもりでもなかったんですけれども、自然の勢で、いつかそうなってしまったんでしょう」

「でしょうじゃいけません。ですと判然おっしゃい。いったいこういうと失礼なようですが、あなたがあんまり延子さんを大事になさり過ぎるからよ」

 津田は首を傾けた。