title
明暗 第百三十六章
author
夏目漱石
body
津田は今日までこういう種類の言葉をまだ夫人の口から聴いた事がなかった。自分達夫婦の仲を、夫人が裏側からどんな眼で観察しているだろうという問題について、さほど神経を遣っていなかった彼は、ようやくそこに気がついた。そんならそうと早く注意してくれればいいのにと思いながら、彼はとにかく夫人の鑑定なり料簡なりをおとなしく結末まで聴くのが上分別だと考えた。
「どうぞ御遠慮なく何でもみんな云って下さい。私の向後の心得にもなる事ですから」
途中まで来た夫人は、たとい津田から誘われないでも、もうそこで止まる訳に行かないので、すぐ残りのものを津田の前に投げ出した。
「あなたは良人や岡本の手前があるので、それであんなに延子さんを大事になさるんでしょう。もっと露骨なのがお望みなら、まだ露骨にだって云えますよ。あなたは表向延子さんを大事にするような風をなさるのね、内側はそれほどでなくっても。そうでしょう」
津田は相手の観察が真逆これほど皮肉な点まで切り込んで来ていようとは思わなかった
「私の性質なり態度なりが奥さんにそう見えますか」
「見えますよ」
津田は一刀で斬られたと同じ事であった。彼は斬られた後でその理由を訊いた。
「どうして? どうしてそう見えるんですか」
「隠さないでもいいじゃありませんか」
「別に隠すつもりでもないんですが……」
夫人は自分の推定が十の十まであたったと信じてかかった。心の中でその六だけを首肯った津田の挨拶は、自然どこかに曖昧な節を残さなければならなかった。それがこの場合誤解の種になるのは見やすい道理であった。夫人はどこまでも同じ言葉を繰り返して、津田を自分の好きな方角へのみ追い込んだ。
「隠しちゃ駄目よ。あなたが隠すと後が云えなくなるだけだから」
津田は是非その後を聴きたかった。その後を聴こうとすれば、夫人の認定を一から十まで承知するよりほかに仕方がなかった。夫人は「それ御覧なさい」と津田をやりこめた後で歩を進めた。
「あなたにはてんから誤解があるのよ。あなたは私を良人といっしょに見ているんでしょう。それから良人と岡本をまたいっしょに見ているんでしょう。それが大間違よ。岡本と良人をいっしょに見るのはまだしも、私を良人や岡本といっしょにするのはおかしいじゃありませんか、この事件について。学問をした方にも似合わないのねあなたも、そんなところへ行くと」
津田はようやく夫人の立場を知る事ができた。しかしその立場の位置及びそれが自分に対してどんな関係になっているのかまだ解らなかった。夫人は云った。
「解り切ってるじゃありませんか。私だけはあなたと特別の関係があるんですもの」
特別の関係という言葉のうちに、どんな内容が盛られているか、津田にはよく解った。しかしそれは目下の問題ではなかった。なぜと云えば、その特別な関係をよく呑み込んでいればこそ、今日までの自分の行動にも、それ相当な一種の色と調子を与えて来たつもりだと彼は信じていたのだから。この特別な関係が夫人をどう支配しているか、そこをもっと明らかに突きとめたところに、新らしい問題は始めて起るのだと気がついた彼は、ただ自分の誤解を認めるだけではすまされなかった。
夫人は一口に云い払った。
「私はあなたの同情者よ」
津田は答えた。
「それは今までついぞ疑って見た例もありません。私は信じ切っています。そうしてその点で深くあなたに感謝しているものです。しかしどういう意味で? どういう意味で同情者になって下さるつもりなんですか、この場合。私は迂濶ものだから奥さんの意味がよく呑み込めません。だからもっと判然り話して下さい」
「この場合に同情者として私があなたにして上げる事がただ一つあると思うんです。しかしあなたは多分――」
夫人はこれだけ云って津田の顔を見た。津田はまた焦らされるのかと思った。しかしそうでないと断言した夫人の問は急に変った。
「私の云う事を聴きますか、聴きませんか」
津田にはまだ常識が残っていた。彼はここへ押しつめられた何人も考えなければならない事を考えた。しかし考えた通りを夫人の前で公然明言する勇気はなかった。勢い彼の態度は煮え切らないものであった。聴くとも聴かないとも云いかねた彼は躊躇した。
「まあ云って見て下さい」
「まあじゃいけません。あなたがもっと判切しなくっちゃ、私だって云う気にはなれません」
「だけれども――」
「だけれどもでも駄目よ。聴きますと男らしく云わなくっちゃ」