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明暗 第百四十五章
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夏目漱石
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それは看護婦にとって意外な儲け日であった。下痢の気味でいつもの通り診察場に出られなかった医者に、代理を頼まれた彼の友人は、午前の都合を付けてくれただけで、午後から夜へかけての時間には、もう顔を出さなかった。
「今日は当直だから晩には来られないんだそうです」
彼女はこう云って、不断のような忙がしい様子をどこにも見せずに、ゆっくり津田の膳の前に坐っていた。
退屈凌ぎに好い相手のできた気になった津田の舌には締りがなかった。彼は面白半分いろいろな事を訊いた。
「君の国はどこかね」
「栃木県です」
「なるほどそう云われて見ると、そうかな」
「名前は何と云ったっけね」
「名前は知りません」
看護婦はなかなか名前を云わなかった。津田はそこに発見された抵抗が愉快なので、わざわざ何遍も同じ事を繰り返して訊いた。
「じゃこれから君の事を栃木県、栃木県って呼ぶよ。いいかね」
「ええよござんす」
彼女の名前の頭文字はつであった。
「露か」
「いいえ」
「なるほど露じゃあるまいな。じゃ土か」
「いいえ」
「待ちたまえよ、露でもなし、土でもないとすると。――ははあ、解った。つやだろう。でなければ、常か」
津田はいくらでもでたらめを云った。云うたびに看護婦は首を振って、にやにや笑った。笑うたびに、津田はまた彼女を追窮した。しまいに彼女の名がつきだと判然った時、彼はこの珍らしい名をまだ弄んだ。
「お月さんだね、すると。お月さんは好い名だ。誰が命けた」
看護婦は返答を与える代りに突然逆襲した。
「あなたの奥さんの名は何とおっしゃるんですか」
「あてて御覧」
看護婦はわざと二つ三つ女らしい名を並べた後で云った。
「お延さんでしょう」
彼女は旨くあてた。というよりも、いつの間にかお延の名を聴いて覚えていた。
「お月さんはどうも油断がならないなあ」
津田がこう云って興じているところへ、本人のお延がひょっくり顔を出したので、ふり返った看護婦は驚ろいて、すぐ膳を持ったなり立ち上った。
「ああ、とうとういらしった」
看護婦と入れ代りに津田の枕元へ坐ったお延はたちまち津田を見た。
「来ないと思っていらしったんでしょう」
「いやそうでもない。しかし今日はもう遅いからどうかとも思っていた」
津田の言葉に偽りはなかった。お延にはそれを認めるだけの眼があった。けれどもそうすれば事の矛盾はなお募るばかりであった。
「でも先刻手紙をお寄こしになったのね」
「ああやったよ」
「今日来ちゃいけないと書いてあるのね」
「うん、少し都合の悪い事があったから」
「なぜあたしが来ちゃ御都合が悪いの」
津田はようやく気がついた。彼はお延の様子を見ながら答えた。
「なに何でもないんだ。下らない事なんだ」
「でも、わざわざ使に持たせてお寄こしになるくらいだから、何かあったんでしょう」
津田はごまかしてしまおうとした。
「下らない事だよ。何でまたそんな事を気にかけるんだ。お前も馬鹿だね」
慰藉のつもりで云った津田の言葉はかえって反対の結果をお延の上に生じた。彼女は黒い眉を動かした。無言のまま帯の間へ手を入れて、そこから先刻の書翰を取り出した。
「これをもう一遍見てちょうだい」
津田は黙ってそれを受け取った。
「別段何にも書いちゃないじゃないか」と云った時、彼の腹はようやく彼の口を否定した。手紙は簡単であった。けれどもお延の疑いを惹くには充分であった。すでに疑われるだけの弱味をもっている彼は、やり損なったと思った。
「何にも書いてないから、その理由を伺うんです」とお延は云った。
「話して下すってもいいじゃありませんか。せっかく来たんだから」
「お前はそれを聴きに来たのかい」
「ええ」
「わざわざ?」
「ええ」
お延はどこまで行っても動かなかった。相手の手剛さを悟った時、津田は偶然好い嘘を思いついた。
「実は小林が来たんだ」
小林の二字はたしかにお延の胸に反響した。しかしそれだけではすまなかった。彼はお延を満足させるために、かえってそこを説明してやらなければならなくなった。