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明暗 第百五十一章

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明暗 第百五十一章

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夏目漱石

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 けれども自然は思ったより頑愚であった。二人はこれだけで別れる事ができなかった。妙な機みからいったん収まりかけた風波がもう少しで盛り返されそうになった。

 それは昂奮したお延の心持がやや平静に復した時の事であった。今切り抜けて来た波瀾の結果はすでに彼女の気分に働らきかけていた。酔を感ずる人が、その酔を利用するような態度で彼女は津田に向った。

「じゃいつごろその温泉へいらっしゃるの」

「ここを出たらすぐ行こうよ。身体のためにもその方が都合がよさそうだから」

「そうね。なるべく早くいらしった方がいいわ。行くと事がきまった以上」

 津田はこれでまずよしと安心した。ところへお延は不意に出た。

「あたしもいっしょに行っていいんでしょう」

 気の緩んだ津田は急にひやりとした。彼は答える前にまず考えなければならなかった。連れて行く事は最初から問題にしていなかった。と云って、断る事はなおむずかしかった。断り方一つで、相手はどう変化するかも分らなかった。彼が何と返事をしたものだろうと思って分別するうちに大切の機は過ぎた。お延は催促した。

「ね、行ってもいいんでしょう」

「そうだね」

「いけないの」

「いけない訳もないがね……」

 津田は連れて行きたくない心の内を、しだいしだいに外へ押し出されそうになった。もし猜疑の眸が一度お延の眼の中に動いたら事はそれぎりであると見てとった彼は、実を云うと、お延と同じ心理状態の支配を受けていた。先刻の波瀾から来た影響は彼にもう憑り移っていた。彼は彼でそれを利用するよりほかに仕方がなかった。彼はすぐ「慰撫」の二字を思い出した。「慰撫に限る。女は慰撫さえすればどうにかなる」。彼は今得たばかりのこの新らしい断案を提さげて、お延に向った。

「行ってもいいんだよ。いいどころじゃない、実は行って貰いたいんだ。第一一人じゃ不自由だからね。世話をして貰うだけでも、その方が都合がいいにきまってるからね」

「ああ嬉しい、じゃ行くわ」

「ところがだね。……」

 お延は厭な顔をした。

「ところがどうしたの」

「ところがさ。宅はどうする気かね」

「宅は時がいるから好いわ」

「好いわって、そんな子供見たいな呑気な事を云っちゃ困るよ」

「なぜ。どこが呑気なの。もし時だけで不用心なら誰か頼んで来るわ」

 お延は続けざまに留守居として適当な人の名を二三挙げた。津田は拒めるだけそれを拒んだ。

「若い男は駄目だよ。時と二人ぎり置く訳にゃ行かないからね」

 お延は笑い出した。

「まさか。――間違なんか起りっこないわ、わずかの間ですもの」

「そうは行かないよ。けっしてそうは行かないよ」

 津田は断乎たる態度を示すと共に、考える風もして見せた。

「誰か適当な人はないもんかね。手頃なお婆さんか何かあるとちょうど持って来いだがな」

 藤井にも岡本にもその他の方面にも、そんな都合の好い手の空いた人は一人もなかった。

「まあよく考えて見るさ」

 この辺で話を切り上げようとした津田は的が外れた。お延は掴んだ袖をなかなか放さなかった。

「考えてない時には、どうするの。もしお婆さんがいなければ、あたしはどうしても行っちゃ悪いの」

「悪いとは云やしないよ」

「だってお婆さんなんかいる訳がないじゃありませんか。考えないだってそのくらいな事は解ってますわ。それより行って悪いなら悪いと判然云ってちょうだいよ」

 せっぱつまった津田はこの時不思議にまた好い云訳を思いついた。

「そりゃいざとなれば留守番なんかどうでも構わないさ。しかし時一人を置いて行くにしたところで、まだ困る事があるんだ。おれは吉川の奥さんから旅費を貰うんだからね。他の金を貰って夫婦連れで遊んで歩くように思われても、あんまりよくないじゃないか」

「そんなら吉川の奥さんからいただかないでも構わないわ。あの小切手があるから」

「そうすると今月分の払の方が差支えるよ」

「それは秀子さんの置いて行ったのがあるのよ」

 津田はまた行きつまった。そうしてまた危い血路を開いた。

「少し小林に貸してやらなくっちゃならないんだぜ」

「あんな人に」

「お前はあんな人にと云うがね、あれでも今度遠い朝鮮へ行くんだからね。可哀想だよ。それにもう約束してしまったんだから、どうする訳にも行かないんだ」

 お延は固より満足な顔をするはずがなかった。しかし津田はこれでどうかこうかその場だけを切り抜ける事ができた。