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明暗 第百五十二章
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夏目漱石
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後は話が存外楽に進行したので、ほどなく第二の妥協が成立した。小林に対する友誼を満足させるため、かつはいったん約束した言責を果すため、津田はお延の貰って来た小切手の中から、その幾分を割いて朝鮮行の贐として小林に贈る事にした。名義は固より貸すのであったが、相手に返す腹のない以上、それを予算に組み込んで今後の的にする訳には行かないので、結果はつまりやる事になったのである。もちろんそこへ行き着くまでにはお延にも多少の難色があった。小林のような横着な男に金銭を恵むのはおろか、ちゃんとした証書を入れさせて、一時の用を足してやる好意すら、彼女の胸のどの隅からも出るはずはなかった。のみならず彼女はややともすると、強いてそれを断行しようとする夫の裏側を覗き込むので、津田はそのたびに少なからず冷々した。
「あんな人に何だってそんな親切を尽しておやりになるんだか、あたしにはまるで解らないわ」
こういう意味の言葉が二度も三度も彼女によって繰り返された。津田が人情一点張でそれを相手にする気色を見せないと、彼女はもう一歩先の事まで云った。
「だから訳をおっしゃいよ。こういう訳があるから、こうしなければ義理が悪いんだという事情さえ明暸になれば、あの小切手をみんな上げても構わないんだから」
津田にはここが何より大事な関所なので、どうしてもお延を通させる訳に行かなかった。彼は小林を弁護する代りに、二人の過去にある旧い交際と、その交際から出る懐かしい記憶とを挙げた。懐かしいという字を使って非難された時には、仕方なしに、昔の小林と今の小林の相違にまで、説明の手を拡げた。それでも腑に落ちないお延の顔を見た時には、急に談話の調子を高尚にして、人道まで云々した。しかし彼の口にする人道はついに一個の功利説に帰着するので、彼は吾知らず自分の拵えた陥穽に向って進んでいながら気がつかず、危うくお延から足を取られて、突き落されそうになる場合も出て来た。それを代表的な言葉でごく簡単に例で現わすと下のようになった。
「とにかく困ってるんだからね、内地にいたたまれずに、朝鮮まで落ちて行こうてんだから、少しは同情してやってもよかろうじゃないか。それにお前はあいつの人格をむやみに攻撃するが、そこに少し無理があるよ。なるほどあいつはしようのない奴さ。しようのない奴には違ないけれども、あいつがこうなった因りをよく考えて見ると、何でもないんだ。ただ不平だからだ。じゃなぜ不平だというと、金が取れないからだ。ところがあいつは愚図でもなし、馬鹿でもなし、相当な頭を持ってるんだからね。不幸にして正則の教育を受けなかったために、ああなったと思うと、そりゃ気の毒になるよ。つまりあいつが悪いんじゃない境遇が悪いんだと考えさえすればそれまでさ。要するに不幸な人なんだ」
これだけなら口先だけとしてもまず立派なのであるが、彼はついにそこで止まる事ができないのである。
「それにまだこういう事も考えなければならないよ。ああ自暴糞になってる人間に逆らうと何をするか解らないんだ。誰とでも喧嘩がしたい、誰と喧嘩をしても自分の得になるだけだって、現にここへ来て公言して威張ってるんだからね、実際始末に了えないよ。だから今もしおれがあいつの要求を跳ねつけるとすると、あいつは怒るよ。ただ怒るだけならいいが、きっと何かするよ。復讐をやるにきまってるよ。ところがこっちには世間体があり、向うにゃそんなものがまるでないんだから、いざとなると敵いっこないんだ。解ったかね」
ここまで来ると最初の人道主義はもうだいぶ崩れてしまう。しかしそれにしても、ここで切り上げさえすれば、お延は黙って点頭くよりほかに仕方がないのである。ところが彼はまだ先へ出るのである。
「それもあいつが主義としてただ上流社会を攻撃したり、または一般の金持を悪口するだけならいいがね。あいつのは、そうじゃないんだ、もっと実際的なんだ。まず最初に自分の手の届く所からだんだんに食い込んで行こうというんだ。だから一番災難なのはこのおれだよ。どう考えてもここでおれ相当の親切を見せて、あいつの感情を美くして、そうして一日も早く朝鮮へ立って貰うのが上策なんだ。でないといつどんな目に逢うか解ったもんじゃない」
こうなるとお延はどうしてもまた云いたくなるのである。
「いくら小林が乱暴だって、あなたの方にも何かなくっちゃ、そんなに怖がる因縁がないじゃありませんか」
二人がこんな押問答をして、小切手の片をつけるだけでも、ものの十分はかかった。しかし小林の方がきまると共に、残りの所置はすぐついた。それを自分の小遣として、任意に自分の嗜慾を満足するという彼女の条件は直ちに成立した。その代り彼女は津田といっしょに温泉へ行かない事になった。そうして温泉行の費用は吉川夫人の好意を受けるという案に同意させられた。
うそ寒の宵に、若い夫婦間に起った波瀾の消長はこれでようやく尽きた。二人はひとまず別れた。