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明暗 第百六十二章

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明暗 第百六十二章

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夏目漱石

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 それが先刻大通りの角で、小林と立談をしていた長髪の青年であるという事に気のついた時、津田はさらに驚ろかされた。けれどもその驚ろきのうちには、暗にこの男を待ち受けていた期待も交っていた。明らさまな津田の感じを云えば、こんな人がここへ来るはずはないという断案と、もしここへ誰か来るとすれば、この人よりほかにあるまいという予想の矛盾であった。

 実を云うと、自働車の燭光で照らされた時、彼の眸の裏に映ったこの人の影像は津田にとって奇異なものであった。自分から小林、小林からこの青年、と順々に眼を移して行くうちには、階級なり、思想なり、職業なり、服装なり、種々な点においてずいぶんな距離があった。勢い津田は彼を遠くに眺めなければならなかった。しかし遠くに眺めれば眺めるほど、強く彼を記憶しなければならなかった。

「小林はああいう人と交際ってるのかな」

 こう思った津田は、その時そういう人と交際っていない自分の立場を見廻して、まあ仕合せだと考えた後なので、新来者に対する彼の態度も自ずから明白であった。彼は突然胡散臭い人間に挨拶をされたような顔をした。

 上へ反っ繰り返った細い鍔の、ぐにゃぐにゃした帽子を脱って手に持ったまま、小林の隣りへ腰をおろした青年の眼には異様の光りがあった。彼は津田に対して現に不安を感じているらしかった。それは一種の反感と、恐怖と、人馴れない野育ちの自尊心とが錯雑して起す神経的な光りに見えた。津田はますます厭な気持になった。小林は青年に向って云った。

「おいマントでも取れ」

 青年は黙って再び立ち上った。そうして釣鐘のような長い合羽をすぽりと脱いで、それを椅子の背に投げかけた。

「これは僕の友達だよ」

 小林は始めて青年を津田に紹介せた。原という姓と芸術家という名称がようやく津田の耳に入った。

「どうした。旨く行ったかね」

 これが小林の次にかけた質問であった。しかしこの質問は充分な返事を得る暇がなかった。小林は後からすぐこう云ってしまった。

「駄目だろう。駄目にきまってるさ、あんな奴。あんな奴に君の芸術が分ってたまるものか。いいからまあゆっくりして何か食いたまえ」

 小林はたちまちナイフを倒さまにして、やけに食卓を叩いた。

「おいこの人の食うものを持って来い」

 やがて原の前にあった洋盃の中に麦酒がなみなみと注がれた。

 この様子を黙って眺めていた津田は、自分の持って来た用事のもう済んだ事にようやく気がついた。こんなお付合を長くさせられては大変だと思った彼は、機を見て好い加減に席を切り上げようとした。すると小林が突然彼の方を向いた。

「原君は好い絵を描くよ、君。一枚買ってやりたまえ。今困ってるんだから、気の毒だ」

「そうか」

「どうだ、この次の日曜ぐらいに、君の家へ持って行って見せる事にしたら」

 津田は驚ろいた。

「僕に絵なんか解らないよ」

「いや、そんなはずはない、ねえ原。何しろ持って行って見せてみたまえ」

「ええ御迷惑でなければ」

 津田の迷惑は無論であった。

「僕は絵だの彫刻だのの趣味のまるでない人間なんですから、どうぞ」

 青年は傷けられたような顔をした。小林はすぐ応援に出た。

「嘘を云うな。君ぐらい鑑賞力の豊富な男は実際世間に少ないんだ」

 津田は苦笑せざるを得なかった。

「また下らない事を云って、――馬鹿にするな」

「事実を云うんだ、馬鹿にするものか。君のように女を鑑賞する能力の発達したものが、芸術を粗末にする訳がないんだ。ねえ原、女が好きな以上、芸術も好きにきまってるね。いくら隠したって駄目だよ」

 津田はだんだん辛防し切れなくなって来た。

「だいぶ話が長くなりそうだから、僕は一足先へ失敬しよう、――おい姉さん会計だ」

 給仕が立ちそうにするところを、小林は大きな声を出して止めながら、また津田の方へ向き直った。

「ちょうど今一枚素敵に好いのが描いてあるんだ。それを買おうという望手の所へ価値の相談に行った帰りがけに、原君はここへ寄ったんだから、旨い機会じゃないか。是非買いたまえ。芸術家の足元へ付け込んで、むやみに価切り倒すなんて失敬な奴へは売らないが好いというのが僕の意見なんだ。その代りきっと買手を周旋してやるから、帰りにここへ寄るがいいと、先刻あすこの角で約束しておいたんだ、実を云うと。だから一つ買ってやるさ、訳ゃないやね」

「他に絵も何にも見せないうちから、勝手にそんな約束をしたってしようがないじゃないか」

「絵は見せるよ。――君今日持って帰らなかったのか」

「もう少し待ってくれっていうから置いて来た」

「馬鹿だな、君は。しまいにロハで捲き上げられてしまうだけだぜ」

 津田はこの問答を聴いてほっと一息吐いた。