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明暗 第五十一章

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明暗 第五十一章

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夏目漱石

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 彼女が叔父叔母の後に随いて、継子といっしょに、二階の片隅にある奥行の深い食堂に入るべく席を立ったのは、それから小一時間後であった。彼女は自分と肩を並べて、すれすれに廊下を歩いて行く従妹に小声で訊いて見た。

「いったいこれから何が始まるの」

「知らないわ」

 継子は下を向いて答えた。

「ただ御飯を食べるぎりなの」

「そうなんでしょう」

 訊こうとすれば訊こうとするほど、継子の返事が曖昧になってくるように思われたので、お延はそれぎり口を閉じた。継子は前に行く父母に遠慮があるのかも知れなかった。また自分は何にも承知していないのかも分らなかった。あるいは承知していても、お延に話したくないので、わざと短かい返事を小さな声で与えないとも限らなかった。

 鋭い一瞥の注意を彼らの上に払って行きがちな、廊下で出逢う多数の人々は、みんなお延よりも継子の方に余分の視線を向けた。忽然お延の頭に彼女と自分との比較が閃めいた。姿恰好は継子に立ち優っていても、服装や顔形で是非ひけを取らなければならなかった彼女は、いつまでも子供らしく羞恥んでいるような、またどこまでも気苦労のなさそうに初々しく出来上った、処女としては水の滴たるばかりの、この従妹を軽い嫉妬の眼で視た。そこにはたとい気の毒だという侮蔑の意が全く打ち消されていないにしたところで、ちょっと彼我の地位を易えて立って見たいぐらいな羨望の念が、著るしく働らいていた。お延は考えた。

「処女であった頃、自分にもかつてこんなお嬢さんらしい時期があったろうか」

 幸か不幸か彼女はその時期を思い出す事ができなかった。平生継子を標準におかないで、何とも思わずに暮していた彼女は、今その従妹と肩を並べながら、賑やかな電灯で明るく照らされた廊下の上に立って、またかつて感じた事のない一種の哀愁に打たれた。それは軽いものであった。しかし涙に変化しやすい性質のものであった。そうして今嫉妬の眼で眺めたばかりの相手の手を、固く握り締めたくなるような種類のものであった。彼女は心の中で継子に云った。

「あなたは私より純潔です。私が羨やましがるほど純潔です。けれどもあなたの純潔は、あなたの未来の夫に対して、何の役にも立たない武器に過ぎません。私のように手落なく仕向けてすら夫は、けっしてこっちの思う通りに感謝してくれるものではありません。あなたは今に夫の愛を繋ぐために、その貴い純潔な生地を失わなければならないのです。それだけの犠牲を払って夫のために尽してすら、夫はことによるとあなたに辛くあたるかも知れません。私はあなたが羨ましいと同時に、あなたがお気の毒です。近いうちに破壊しなければならない貴い宝物を、あなたはそれと心づかずに、無邪気にもっているからです。幸か不幸か始めから私には今あなたのもっているような天然そのままの器が完全に具わっておりませんでしたから、それほどの損失もないのだと云えば、云われないこともないでしょうが、あなたは私と違います。あなたは父母の膝下を離れると共に、すぐ天真の姿を傷けられます。あなたは私よりも可哀相です」

 二人の歩き方は遅かった。先に行った岡本夫婦が人に遮ぎられて見えなくなった時、叔母はわざわざ取って返した。

「早くおいでなね。何をぐずぐずしているの。もう吉川さんの方じゃ先へ来て待っていらっしゃるんだよ」

 叔母の眼は継子の方にばかり注がれていた。言葉もとくに彼女に向ってかけられた。けれども吉川という名前を聞いたお延の耳には、それが今までの気分を一度に吹き散らす風のように響いた。彼女は自分のあまり好いていない、また向うでも自分をあまり好いていないらしい、吉川夫人の事をすぐ思い出した。彼女は自分の夫が、平生から一方ならぬ恩顧を受けている勢力家の妻君として、今その人の前に、能う限りの愛嬌と礼儀とを示さなければならなかった。平静のうちに一種の緊張を包んで彼女は、知らん顔をして、みんなの後に随いて食堂に入った。