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明暗 第五十六章

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明暗 第五十六章

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夏目漱石

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 残りの時間を叔母の家族とともに送ったお延には、それから何の波瀾も来なかった。ただ褞袍を着て横臥した寝巻姿の津田の面影が、熱心に舞台を見つめている彼女の頭の中に、不意に出て来る事があった。その面影は今まで読みかけていた本を伏せて、ここに坐っている彼女を、遠くから眺めているらしかった。しかしそれは、彼女が喜こんで彼を見返そうとする刹那に、「いや疳違いをしちゃいけない、何をしているかちょっと覗いて見ただけだ。お前なんかに用のあるおれじゃない」という意味を、眼つきで知らせるものであった。騙されたお延は何だ馬鹿らしいという気になった。すると同時に津田の姿も幽霊のようにすぐ消えた。二度目にはお延の方から「もうあなたのような方の事は考えて上げません」と云い渡した。三度目に津田の姿が眼に浮んだ時、彼女は舌打をしたくなった。

 食堂へ入る前の彼女はいまだかつて夫の事を念頭においていなかったので、お延に云わせると、こういう不可抗な心の作用は、すべて夕飯後に起った新らしい経験にほかならなかった。彼女は黙って前後二様の自分を比較して見た。そうしてこの急劇な変化の責任者として、胸のうちで、吉川夫人の名前を繰り返さない訳に行かなかった。今夜もし夫人と同じ食卓で晩餐を共にしなかったならば、こんな変な現象はけっして自分に起らなかったろうという気が、彼女の頭のどこかでした。しかし夫人のいかなる点が、この苦い酒を醸す醗酵分子となって、どんな具合に彼女の頭のなかに入り込んだのかと訊かれると、彼女はとても判然した返事を与えることができなかった。彼女はただ不明暸な材料をもっていた。そうして比較的明暸な断案に到着していた。材料に不足な掛念を抱かない彼女が、その断案を不備として疑うはずはなかった。彼女は総ての源因が吉川夫人にあるものと固く信じていた。

 芝居が了ねていったん茶屋へ引き上げる時、お延はそこでまた夫人に会う事を恐れた。しかし会ってもう少し突ッ込んで見たいような気もした。帰りを急ぐ混雑した間際に、そんな機会の来るはずもないと、始めから諦らめている癖に、そうした好奇の心が、会いたくないという回避の念の蔭から、ちょいちょい首を出した。

 茶屋は幸にして異っていた。吉川夫婦の姿はどこにも見えなかった。襟に毛皮の付いた重そうな二重廻しを引掛けながら岡本がコートに袖を通しているお延を顧みた。

「今日は宅へ来て泊って行かないかね」

「え、ありがとう」

 泊るとも泊らないとも片づかない挨拶をしたお延は、微笑しながら叔母を見た。叔母はまた「あなたの気楽さ加減にも呆れますね」という表情で叔父を見た。そこに気がつかないのか、あるいは気がついても無頓着なのか、彼は同じ事を、前よりはもっと真面目な調子で繰り返した。

「泊って行くなら、泊っといでよ。遠慮は要らないから」

「泊っていけったって、あなた、宅にゃ下女がたった一人で、この子の帰るのを待ってるんですもの。そんな事無理ですわ」

「はあ、そうかね、なるほど。下女一人じゃ不用心だね」

 そんなら止すが好かろうと云った風の様子をした叔父は、無論最初からどっちでも構わないものをちょっと問題にして見ただけであった。

「あたしこれでも津田へ行ってからまだ一晩も御厄介になった事はなくってよ」

「はあ、そうだったかね。それは感心に品行方正の至だね」

「厭だ事。――由雄だって外へ泊った事なんか、まだ有りゃしないわ」

「いや結構ですよ。御夫婦お揃で、お堅くっていらっしゃるのは――」

「何よりもって恐悦至極」

 先刻聞いた役者の言葉を、小さな声で後へ付け足した継子は、そう云った後で、自分ながらその大胆さに呆れたように、薄赤くなった。叔父はわざと大きな声を出した。

「何ですって」

 継子はきまりが悪いので、聞こえないふりをして、どんどん門口の方へ歩いて行った。みんなもその後に随いて表へ出た。

 車へ乗る時、叔父はお延に云った。

「お前宅へ泊れなければ、泊らないでいいから、その代りいつかおいでよ、二三日中にね。少し訊きたい事があるんだから」

「あたしも叔父さんに伺わなくっちゃならない事があるから、今日のお礼かたがた是非上るわ。もしか都合ができたら明日にでも伺ってよ、好くって」

「オー、ライ」

 四人の車はこの英語を相図に走け出した。