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明暗 第七十章
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夏目漱石
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継子の居間はとりも直さず津田に行く前のお延の居間であった。そこに机を並べて二人いた昔の心持が、まだ壁にも天井にも残っていた。硝子戸を篏めた小さい棚の上に行儀よく置かれた木彫の人形もそのままであった。薔薇の花を刺繍にした籃入のピンクッションもそのままであった。二人してお対に三越から買って来た唐草模様の染付の一輪挿もそのままであった。
四方を見廻したお延は、従妹と共に暮した処女時代の匂を至る所に嗅いだ。甘い空想に充ちたその匂が津田という対象を得てついに実現された時、忽然鮮やかなに変化した自己の感情の前に抃舞したのは彼女であった。眼に見えないでも、瓦斯があったから、ぱっと火が点いたのだと考えたのは彼女であった。空想と現実の間には何らの差違を置く必要がないと論断したのは彼女であった。顧みるとその時からもう半年以上経過していた。いつか空想はついに空想にとどまるらしく見え出して来た。どこまで行っても現実化されないものらしく思われた。あるいは極めて現実化され悪いものらしくなって来た。お延の胸の中には微かな溜息さえ宿った。
「昔は淡い夢のように、しだいしだいに確実な自分から遠ざかって行くのではなかろうか」
彼女はこういう観念の眼で、自分の前に坐っている従妹を見た。多分は自分と同じ径路を踏んで行かなければならない、またひょっとしたら自分よりもっと予期に外れた未来に突き当らなければならないこの処女の運命は、叔父の手にある諾否の賽が、畳の上に転がり次第、今明日中にでも、永久に片づけられてしまうのであった。
お延は微笑した。
「継子さん、今日はあたしがお神籤を引いて上げましょうか」
「なんで?」
「何でもないのよ。ただよ」
「だってただじゃつまらないわ。何かきめなくっちゃ」
「そう。じゃきめましょう。何がいいでしょうね」
「何がいいか、そりゃあたしにゃ解らないわ。あなたがきめて下さらなくっちゃ」
継子は容易に結婚問題を口へ出さなかった。お延の方からむやみに云い出されるのも苦痛らしかった。けれども間接にどこかでそこに触れて貰いたい様子がありありと見えた。お延は従妹を喜こばせてやりたかった。と云って、後で自分の迷惑になるような責任を持つのは厭であった。
「じゃあたしが引くから、あなた自分でおきめなさい、ね。何でも今あなたのお腹の中で、一番知りたいと思ってる事があるでしょう。それにするのよ、あなたの方で、自分勝手に。よくって」
お延は例の通り継子の机の上に乗っている彼ら夫婦の贈物を取ろうとした。すると継子が急にその手を抑えた。
「厭よ」
お延は手を引込めなかった。
「何が厭なの。いいからちょいとお貸しなさいよ。あなたの嬉しがるのを出して上げるから」
神籤に何の執着もなかったお延は、突然こうして継子と戯れたくなった。それは結婚以前の処女らしい自分を、彼女に憶い起させる良い媒介であった。弱いものの虚を衝くために用いられる腕の力が、彼女を男らしく活溌にした。抑えられた手を跳ね返した彼女は、もう最初の目的を忘れていた。ただ神籤箱を継子の机の上から奪い取りたかった。もしくはそれを言い前に、ただ継子と争いたかった。二人は争った。同時に女性の本能から来るわざとらしい声を憚りなく出して、遊技的な戦いに興を添えた。二人はついに硯箱の前に飾ってある大事な一輪挿を引っ繰り返した。紫檀の台からころころと転がり出したその花瓶は、中にある水を所嫌わず打ち空けながら畳の上に落ちた。二人はようやく手を引いた。そうして自然の位置から不意に放り出された可愛らしい花瓶を、同じように黙って眺めた。それから改めて顔を見合せるや否や、急に抵抗する事のできない衝動を受けた人のように、一度に笑い出した。