← 作品

明暗 第八十章

title

明暗 第八十章

author

夏目漱石

body

 強い意志がお延の身体全体に充ち渡った。朝になって眼を覚ました時の彼女には、怯懦ほど自分に縁の遠いものはなかった。寝起の悪過ぎた前の日の自分を忘れたように、彼女はすぐ飛び起きた。夜具を跳ね退けて、床を離れる途端に、彼女は自分で自分の腕の力を感じた。朝寒の刺戟と共に、締まった筋肉が一度に彼女を緊縮させた。

 彼女は自分の手で雨戸を手繰った。戸外の模様はいつもよりまだよッぽど早かった。昨日に引き換えて、今日は津田のいる時よりもかえって早く起きたという事が、なぜだか彼女には嬉しかった。怠けて寝過した昨日の償い、それも満足の一つであった。

 彼女は自分で床を上げて座敷を掃き出した後で鏡台に向った。そうして結ってから四日目になる髪を解いた。油で汚れた所へ二三度櫛を通して、癖がついて自由にならないのを、無理に廂に束ね上げた。それが済んでから始めて下女を起した。

 食事のできるまでの時間を、下女と共に働らいた彼女は、膳に着いた時、下女から「今日は大変お早うございましたね」と云われた。何にも知らないお時は、彼女の早起を驚ろいているらしかった。また自分が主人より遅く起きたのをすまない事でもしたように考えているらしかった。

「今日は旦那様のお見舞に行かなければならないからね」

「そんなにお早くいらっしゃるんでございますか」

「ええ。昨日行かなかったから今日は少し早く出かけましょう」

 お延の言葉遣は平生より鄭寧で片づいていた。そこに或落ちつきがあった。そうしてその落ちつきを裏切る意気があった。意気に伴なう果断も遠くに見えた。彼女の中にある心の調子がおのずと態度にあらわれた。

 それでも彼女はすぐ出かけようとはしなかった。襷を外して盆を持ったお時を相手に、しばらく岡本の話などをした。もと世話になった覚のあるその家族は、お時にとっても、興味に充ちた題目なので、二人は同じ事を繰り返すようにしてまで、よく彼らについて語り合った。ことに津田のいない時はそうであった。というのは、もし津田がいると、ある場合には、彼一人が除外物にされたような変な結果に陥るからであった。ふとした拍子からそんな気下味い思いを一二度経験した後で、そこに気をつけ出したお延は、そのほかにまだ、富裕な自分の身内を自慢らしく吹聴したがる女と夫から解釈される不快を避けなければならない理由もあったので、お時にもかねてその旨を言い含めておいたのである。

「御嬢さまはまだどこへもおきまりになりませんのでございますか」

「何だかそんな話もあるようだけれどもね、まだどうなるかよく解らない様子だよ」

「早く好い所へいらっしゃるようになると、結構でございますがね」

「おおかたもうじきでしょう。叔父さんはあんな性急だから。それに継子さんはあたしと違って、ああいう器量好しだしね」

 お時は何か云おうとした。お延は下女のお世辞を受けるのが苦痛だったので、すぐ自分でその後をつけた。

「女はどうしても器量が好くないと損ね。いくら悧巧でも、気が利いていても、顔が悪いと男には嫌われるだけね」

「そんな事はございません」

 お時が弁護するように強くこういったので、お延はなお自分を主張したくなった。

「本当よ。男はそんなものなのよ」

「でも、それは一時の事で、年を取るとそうは参りますまい」

 お延は答えなかった。しかし彼女の自信はそんな弱いものではなかった。

「本当にあたしのような不器量なものは、生れ変ってでも来なくっちゃ仕方がない」

 お時は呆れた顔をしてお延を見た。

「奥様が不器量なら、わたくしなんか何といえばいいのでございましょう」

 お時の言葉はお世辞でもあり、事実でもあった。両方の度合をよく心得ていたお延は、それで満足して立ち上った。

 彼女が外出のため着物を着換えていると、戸外から誰か来たらしい足音がして玄関の号鈴が鳴った。取次に出たお時に、「ちょっと奥さんに」という声が聞こえた。お延はその声の主を判断しようとして首を傾けた。