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明暗 第九十三章

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明暗 第九十三章

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夏目漱石

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 手術後局部に起る変な感じが彼を襲って来た。それはガーゼを詰め込んだ創口の周囲にある筋肉が一時に収縮するために起る特殊な心持に過ぎなかったけれども、いったん始まったが最後、あたかも呼吸か脈搏のように、規則正しく進行してやまない種類のものであった。

 彼は一昨日の午後始めて第一の収縮を感じた。芝居へ行く許諾を彼から得たお延が、階子段を下へ降りて行った拍子に起ったこの経験は、彼にとって全然新らしいものではなかった。この前療治を受けた時、すでに同じ現象の発見者であった彼は、思わず「また始まったな」と心の中で叫んだ。すると苦い記憶をわざと彼のために繰り返してみせるように、収縮が規則正しく進行し出した。最初に肉が縮む、詰め込んだガーゼで荒々しくその肉を擦すられた気持がする、次にそれがだんだん緩和されて来る、やがて自然の状態に戻ろうとする、途端に一度引いた浪がまた磯へ打ち上げるような勢で、収縮感が猛烈にぶり返してくる。すると彼の意志はその局部に対して全く平生の命令権を失ってしまう。止めさせようと焦慮れば焦慮るほど、筋肉の方でなお云う事を聞かなくなる。――これが過程であった。

 津田はこの変な感じとお延との間にどんな連絡があるか知らなかった。彼は籠の中の鳥見たように彼女を取扱うのが気の毒になった。いつまでも彼女を自分の傍に引きつけておくのを男らしくないと考えた。それで快よく彼女を自由な空気の中に放してやった。しかし彼女が彼の好意を感謝して、彼の病床を去るや否や、急に自分だけ一人取り残されたような気がし出した。彼は物足りない耳を傾むけて、お延の下へ降りて行く足音を聞いた。彼女が玄関の扉を開ける時、烈しく鳴らした号鈴の音さえ彼にはあまり無遠慮過ぎた。彼が局部から受ける厭な筋肉の感じはちょうどこの時に再発したのである。彼はそれを一種の刺戟に帰した。そうしてその刺戟は過敏にされた神経のお蔭にほかならないと考えた。ではお延の行為が彼の神経をそれほど過敏にしたのだろうか。お延の所作に対して突然不快を感じ出した彼も、そこまでは論断する事ができなかった。しかし全く偶然の暗合でない事も、彼に云わせると、自明の理であった。彼は自分だけの料簡で、二つの間にある関係を拵えた。同時にその関係を後からお延に云って聞かせてやりたくなった。単に彼女を気の毒がらせるために、病気で寝ている夫を捨てて、一日の歓楽に走った結果の悪かった事を、彼女に後悔させるために。けれども彼はそれを適当に云い現わす言葉を知らなかった。たとい云い現わしても彼女に通じない事はたしかであった。通じるにしても、自分の思い通りに感じさせる事はむずかしかった。彼は黙って心持を悪くしているよりほかに仕方がなかった。

 お秀の方を向き直ったとっさに、また感じ始めた局部の収縮が、すぐ津田にこれだけの顛末を思い起させた。彼は苦い顔をした。

 何にも知らないお秀にそんな細かい意味の分るはずはなかった。彼女はそれを兄がいつでも自分にだけして見せる例の表情に過ぎないと解釈した。

「お厭なら病院をお出になってから後にしましょうか」

 別に同情のある態度も示さなかった彼女は、それでも幾分か斟酌しなければならなかった。

「どこか痛いの」

 津田はただ首肯いて見せた。お秀はしばらく黙って彼の様子を見ていた。同時に津田の局部で収縮が規則正しく繰り返され始めた。沈黙が二人の間に続いた。その沈黙の続いている間彼は苦い顔を改めなかった。

「そんなに痛くっちゃ困るのね。嫂さんはどうしたんでしょう。昨日の電話じゃ痛みも何にもないようなお話しだったのにね」

「お延は知らないんだ」

「じゃ嫂さんが帰ってから後で痛み始めたの」

「なに本当はお延のお蔭で痛み始めたんだ」とも云えなかった津田は、この時急に自分が自分に駄々っ子らしく見えて来た。上部はとにかく、腹の中がいかにも兄らしくないのが恥ずかしくなった。

「いったいお前の用というのは何だい」

「なに、そんなに痛い時に話さなくってもいいのよ。またにしましょう」

 津田は優に自分を偽る事ができた。しかしその時の彼は偽るのが厭であった。彼はもう局部の感じを忘れていた。収縮は忘れればやみ、やめば忘れるのをその特色にしていた。

「構わないからお話しよ」

「どうせあたしの話だから碌な事じゃないのよ。よくって」

 津田にも大よその見当はついていた。