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明暗 第九十九章

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明暗 第九十九章

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夏目漱石

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 津田はお秀の口から出た下半句を聞いた時、わざと眼を動かさなかった。よそを向いたまま、じっとその後を待っていた。しかし彼の聞こうとするその後はついに出て来なかった。お秀は彼の気になりそうな事を半分云ったぎりで、すぐ句を改めてしまった。

「何だって兄さんはまた今日に限って、そんなつまらない事を心配していらっしゃるの。何か特別な事情でもあるの」

 津田はやはり元の所へ眼をつけていた。それはなるべく妹に自分の心を気取られないためであった。眼の色を彼女に読まれないためであった。そうして現にその不自然な所作から来る影響を受けていた。彼は何となく臆病な感じがした。彼はようやくお秀の方を向いた。

「別に心配もしていないがね」

「ただ気になるの」

 この調子で押して行くと彼はただお秀から冷笑かされるようなものであった。彼はすぐ口を閉じた。

 同時に先刻から催おしていた収縮感がまた彼の局部に起った。彼は二三度それを不愉快に経験した後で、あるいは今度も規則正しく一定の時間中繰り返さなければならないのかという掛念に制せられた。

 そんな事に気のつかないお秀は、なぜだか同じ問題をいつまでも放さなかった。彼女はいったん緒口を失ったその問題を、すぐ別の形で彼の前に現わして来た。

「兄さんはいったい嫂さんをどんな人だと思っていらっしゃるの」

「なぜ改まって今頃そんな質問をかけるんだい。馬鹿らしい」

「そんならいいわ、伺わないでも」

「しかしなぜ訊くんだよ。その訳を話したらいいじゃないか」

「ちょっと必要があったから伺ったんです」

「だからその必要をお云いな」

「必要は兄さんのためよ」

 津田は変な顔をした。お秀はすぐ後を云った。

「だって兄さんがあんまり小林さんの事を気になさるからよ。何だか変じゃありませんか」

「そりゃお前にゃ解らない事なんだ」

「どうせ解らないから変なんでしょうよ。じゃいったい小林さんがどんな事をどんな風に嫂さんに持ちかけるって云うの」

「持ちかけるとも何とも云っていやしないじゃないか」

「持ちかける恐れがあるという意味です。云い直せば」

 津田は答えなかった。お秀は穴の開くようにその顔を見た。

「まるで想像がつかないじゃありませんか。たとえばいくらあの人が人が悪くなったにしたところで、何も云いようがないでしょう。ちょっと考えて見ても」

 津田はまだ答えなかった。お秀はどうしても津田の答えるところまで行こうとした。

「よしんば、あの人が何か云うにしたところで、嫂さんさえ取り合わなければそれまでじゃありませんか」

「そりゃ聴かないでも解ってるよ」

「だからあたしが伺うんです。兄さんはいったい嫂さんをどう思っていらっしゃるかって。兄さんは嫂さんを信用していらっしゃるんですか、いらっしゃらないんですか」

 お秀は急に畳みかけて来た。津田にはその意味がよく解らなかった。しかしそこに相手の拍子を抜く必要があったので、彼は判然した返事を避けて、わざと笑い出さなければならなかった。

「大変な権幕だね。まるで詰問でも受けているようじゃないか」

「ごまかさないで、ちゃんとしたところをおっしゃい」

「云えばどうするというんだい」

「私はあなたの妹です」

「それがどうしたというのかね」

「兄さんは淡泊でないから駄目よ」

 津田は不思議そうに首を傾けた。

「何だか話が大変むずかしくなって来たようだが、お前少し癇違をしているんじゃないかい。僕はそんな深い意味で小林の事を云い出したんでも何でもないよ。ただ彼奴は僕の留守にお延に会って何をいうか分らない困った男だというだけなんだよ」

「ただそれだけなの」

「うんそれだけだ」

 お秀は急に的の外れたような様子をした。けれども黙ってはいなかった。

「だけど兄さん、もし堀のいない留守に誰かあたしの所へ来て何か云うとするでしょう。それを堀が知って心配すると思っていらっしって」

「堀さんの事は僕にゃ分らないよ。お前は心配しないと断言する気かも知れないがね」

「ええ断言します」

「結構だよ。――それで?」

「あたしの方もそれだけよ」

 二人は黙らなければならなかった。