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道草 第三十七章

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道草 第三十七章

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夏目漱石

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 兄は過去の人であった。華美な前途はもう彼の前に横わっていなかった。何かに付けて後を振り返りがちな彼と対坐している健三は、自分の進んで行くべき生活の方向から逆に引き戻されるような気がした。

「淋しいな」

 健三は兄の道伴になるには余りに未来の希望を多く持ち過ぎた。そのくせ現在の彼もかなりに淋しいものに違なかった。その現在から順に推した未来の、当然淋しかるべき事も彼にはよく解っていた。

 兄はこの間の相談通り島田の要求を断った旨を健三に話した。しかしどんな手続きでそれを断ったのか、また先方がそれに対してどんな挨拶をしたのか、そういう細かい点になると、全く要領を得た返事をしなかった。

「何しろ比田からそういって来たんだから慥だろう」

 その比田が島田に会いに行って話を付けたとも、または手紙で会見の始末を知らせて遣ったとも、健三には判明らなかった。

「多分行ったんだろうと思うがね。それともあの人の事だから、手紙だけで済ましてしまったのか。其所はつい聴いて来るのを忘れたよ。尤もあの後一返姉さんの見舞かたがた行った時にゃ、比田が相変らず留守だったので、つい会う事が出来なかったのさ。しかしその時姉さんの話じゃ、何でも忙がしいんで、まだそのままにしてあるようだっていってたがね。あの男も随分無責任だから、ことによると行かないのかも知れないよ」

 健三の知っている比田も無責任の男に相違なかった。その代り頼むと何でも引き受ける性質であった。ただ他から頭を下げて頼まれるのが嬉しくって物を受合いたがる彼は、頼み方が気に入らないと容易に動かなかった。

「しかしこんだの事なんざあ、島田がじかに比田の所へ持ち込んだんだからねえ」

 兄は暗に比田自身が先方へ出向いて話し合を付けなければ義理の悪いような事をいった。そのくせ彼はこんな場合に決して自分で懸合事などに出掛ける人ではなかった。少し気を遣わなければならない面倒が起ると必ず顔を背けた。そうして事情の許す限り凝と辛防して独り苦しんだ。健三にはこの矛盾が腹立たしくも可笑しくもない代りに何となく気の毒に見えた。

「自分も兄弟だから他から見たらどこか似ているのかも知れない」

 こう思うと、兄を気の毒がるのは、つまり自分を気の毒がるのと同じ事にもなった。

「姉さんはもう好いんですか」

 問題を変えた彼は、姉の病気について経過を訊ねた。

「ああ。どうも喘息ってものは不思議だねえ。あんなに苦しんでいても直癒るんだから」

「もう話が出来ますか」

「出来るどころか、なかなか能く喋舌ってね。例の調子で。――姉さんの考じゃ、島田は御縫さんの所へ行って、智慧を付けられて来たんだろうっていうんだがね」

「まさか。それよりあの男だからあんな非常識な事をいって来るのだと解釈する方が適当でしょう」

「そう」

 兄は考えていた。健三は馬鹿らしいという顔付をした。

「でなければね。きっと年を取って皆なから邪魔にされるんだろうって」

 健三はまだ黙っていた。

「何しろ淋しいには違ないんだね。それもあいつの事だから、人情で淋しいんじゃない、慾で淋しいんだ」

 兄はお縫さんの所から毎月彼女の母の方へ手宛が届く事をどうしてか知っていた。

「何でも金鵄勲章の年金か何かを御藤さんが貰ってるんだとさ。だから島田もどこからか貰わなくっちゃ淋しくって堪らなくなったんだろうよ。何しろあの位慾張ってるんだから」

 健三は慾で淋しがってる人に対して大した同情も起し得なかった。