title
三四郎 二の五
author
夏目金之助
body
三四郎は花から眼を放した。見ると野々宮君が石橋の向ふに長く立つてゐる。
「君まだ居たんですか」と云ふ。三四郎は答をする前に、立つてのそ/\歩いて行つた。石橋の上迄来て、
「えゝ」と云つた。何となく間が抜けてゐる。けれども野々宮君は、少しも驚ろかない。
「涼しいですか」と聞いた。三四郎は又
「えゝ」と云つた。
野々宮君は少時池の水を眺めてゐたが、右の手を隠袋へ入れて何か探し出した。隠袋から半分封筒が食み出してゐる。其上に書いてある字が女の手蹟らしい。野々宮君は思ふ物を探し宛てなかつたと見えて、元の通りの手を出してぶらりと下げた。さうして、かう云つた。
「今日は少し装置が狂つたので晩の実験は已めだ。是から本郷の方を散歩して帰らうと思ふが、君どうです一所にあるきませんか」
三四郎は快よく応じた。二人で坂を上がつて、岡の上へ出た。野々宮君はさつき女の立つてゐた辺で一寸留つて、向ふの青い木立の間から見える赤い建物と、崖の高い割に、水の落ちた池を一面に見渡して、
「一寸好い景色でせう。あの建築の角度の所丈が少し出てゐる。木の間から。ね。好いでせう。君気が付いてゐますか。あの建物は中々旨く出来てゐますよ。工科もよく出来てるが此方が旨いですね」
三四郎は野々宮君の鑑賞力に少々驚ろいた。実を云ふと自分には何方が好いか丸で分らないのである。そこで今度は三四郎の方が、はあ、はあと云ひ出した。
「それから、此木と水の感じがね。――大したものぢやないが、何しろ東京の真中にあるんだから――静かでせう。かう云ふ所でないと学問をやるには不可ませんね。近頃は東京があまり八釜間敷なり過ぎて困る。是が御殿」とあるき出しながら、左手の建物を指して見せる。「教授会を遣る所です。うむなに、僕なんか出ないで好いのです。僕は穴倉生活を遣つてゐれば済むのです。近頃の学問は非常な勢で動いてゐるので、少し油断すると、すぐ取り残されて仕舞ふ。人が見ると穴倉のなかで冗談をしてゐる様だが、是でも遣つてゐる当人の頭の中は劇烈に働いてゐるんですよ。電車より余っ程烈しく働らいてゐるかも知れない。だから夏でも旅行をするのが惜しくつてね」と言ひながら仰向いて大きな空を見た。空にはもう日の光りが乏しい。
青い空の静まり返つた、上皮に、白い薄雲が刷毛先で掻き払つた痕の様に、筋違に長く浮いてゐる。
「あれを知つてますか」と云ふ。三四郎は仰いで半透明の雲を見た。
「あれは、みんな雪の粉ですよ。かうやつて下から見ると、些とも動いて居ない。然し、あれで地上に起る颶風以上の速力で動いてゐるんですよ。――君ラスキンを読みましたか」
三四郎は憮然として読まないと答へた。野々宮君はたゞ
「さうですか」と云つた許りである。しばらくしてから、
「此空を写生したら面白いですね。――原口にでも話してやらうかしら」と云つた。三四郎は無論原口と云ふ画工の名前を知らなかつた。