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三四郎 三の十二
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夏目金之助
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三四郎は新らしい四角な帽子を被つてゐる。此帽子を被つて病院に行けるのが一寸得意である。冴々しい顔をして野々宮君の家を出た。
御茶の水で電車を降りて、すぐ俥に乗つた。いつもの三四郎に似合はぬ所作である。威勢よく赤門を引き込ませた時、法文科の号鐘が鳴り出した。いつもなら手帳と印気壺を以て、八番の教室に這入る時分である。一二時間の講義位聴き損なつても構はないと云ふ気で、真直に青山内科の玄関迄乗り付けた。
上り口を奥へ、二つ目の角を右へ切れて、突当りを左へ曲ると東側の部屋だと教つた通り歩いて行くと、果してあつた。黒塗の札に野々宮よし子と仮名でかいて、戸口に懸けてある。三四郎は此名前を読んだ儘、しばらく戸口の所で佇んでゐた。田舎者だから敲するなぞと云ふ気の利いた事はやらない。
「此中にゐる人が、野々宮君の妹で、よし子と云ふ女である」
三四郎は斯う思つて立つてゐた。戸を開けて顔が見度もあるし、見て失望するのが厭でもある。自分の頭の中に往来する女の顔は、どうも野々宮宗八さんに似てゐないのだから困る。
後ろから看護婦が草履の音を立てゝ近付いて来た。三四郎は思ひ切つて戸を半分程開けた。さうして中にゐる女と顔を見合せた。(片手に握りを把つた儘)
眼の大きな、鼻の細い、唇の薄い、鉢が開いたと思ふ位に、額が広くつて顎が削けた女であつた。造作は夫丈である。けれども三四郎は、かう云ふ顔だちから出る、此時にひらめいた咄嗟の表情を生れて始めて見た。蒼白い額の後に、自然の儘に垂れた濃い髪が、肩迄見える。それへ東窓を洩れる朝日の光が、後から射すので、髪と日光の触れ合ふ境の所が菫色に燃えて、活きた暈を脊負つてる。それでゐて、顔も額も甚だ暗い。暗くて蒼白い。其中に遠い心持のする眼がある。高い雲が空の奥にゐて容易に動かない。けれども動かずにも居られない。たゞ崩れる様に動く。女が三四郎を見た時は、かう云ふ眼付であつた。
三四郎は此表情のうちに嬾い憂鬱と、隠さゞる快活との統一を見出した。其統一の感じは三四郎に取つて、最も尊き人生の一片である。さうして一大発見である。三四郎は握りを把つた儘、――顔を戸の影から半分部屋の中に差し出した儘、此刹那の感に自己を放下し去つた。
「御這入りなさい」
女は三四郎を待ち設けた様に云ふ。其調子には初対面の女には見出す事の出来ない、安らかな音色があつた。純粋の小供か、あらゆる男児に接しつくした婦人でなければ、かうは出られない。馴々しいのとは違ふ。初から旧い相識なのである。同時に女は肉の豊でない頬を動かしてにこりと笑つた。蒼白いうちに、なつかしい暖味が出来た。三四郎の足は自然と部屋の内へ這入つた。其時青年の頭の裡には遠い故郷にある母の影が閃めいた。