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三四郎 四の十五
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夏目金之助
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二人が書斎から廊下伝ひに、座敷へ来て見ると、座敷の真中に美禰子の持つて来た籃が据ゑてある。蓋が取つてある。中にサンドヰツチが沢山這入つてゐる。美禰子は其傍に坐つて、籃の中のものを小皿へ取り分けてゐる。与次郎と美禰子の問答が始つた。
「能く忘れずに持つて来ましたね」
「だつて、わざ/\御注文ですもの」
「其籃も買つて来たんですか」
「いゝえ」
「家にあつたんですか」
「えゝ」
「大変大きなものですね。車夫でも連れて来たんですか。序でに、少しの間置いて働らかせれば可いのに」
「車夫は今日は使に出ました。女だつて此位なものは持てますわ」
「あなただから持つんです。外の御嬢さんなら、まあ已めますね」
「さうでせうか。夫なら私も已めれば可かつた」
美禰子は食物を小皿へ取りながら、与次郎と応対してゐる。言葉に少しも淀がない。しかも緩くり落付いてゐる。殆んど与次郎の顔を見ない位である。三四郎は敬服した。
台所から下女が茶を持つてくる。籃を取り巻いた連中は、サンドヰツチを食ひ出した。少しの間は静であつたが、思ひ出した様に与次郎が又広田先生に話しかけた。
「先生、序だから一寸聞いて置きますが先刻の何とかベーンですね」
「アフラ、ベーンか」
「全体何です、そのアフラ、ベーンと云ふのは」
「英国の閨秀作家だ。十七世紀の」
「十七世紀は古過ぎる。雑誌の材料にやなりませんね」
「古い。然し職業として小説に従事した始めての女だから、それで有名だ」
「有名ぢや困るな。もう少し伺つて置かう。どんなものを書いたんですか」
「僕はオルノーコと云ふ小説を読んだ丈だが、小川さん、さういふ名の小説が全集のうちにあつたでせう」
三四郎は奇麗に忘れてゐる。先生に其梗概を聞いて見ると、オルノーコと云ふ黒ん坊の王族が英国の船長に瞞されて、奴隷に売られて、非常に難義をする事が書いてあるのださうだ。しかも是は作家の実見譚だとして後世に信ぜられてゐたといふ話である。
「面白いな。里見さん、どうです、一つオルノーコでも書いちやあ」と与次郎は又美禰子の方へ向つた。
「書いても可ござんすけれども、私にはそんな実見譚がないんですもの」
「黒ん坊の主人公が必要なら、その小川君でも可いぢやありませんか。九州の男で色が黒いから」
「口の悪い」と美禰子は三四郎を弁護する様に言つたが、すぐあとから三四郎の方を向いて、
「書いても可くつて」と聞いた。其眼を見た時に、三四郎は今朝籃を提げて、折戸からあらはれた瞬間の女を思ひ出した。自から酔つた心地である。けれども酔つて竦んだ心地である。どうぞ願ひます抔とは無論云ひ得なかつた。