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三四郎 四の十六
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夏目金之助
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広田先生は例によつて烟草を呑み出した。与次郎は之を評して鼻から哲学の烟を吐くと云つた。成程烟の出方が少し違ふ。悠然として太く逞ましい棒が二本穴を抜けて来る。与次郎は其烟柱を眺めて、半分背を唐紙に持たした儘黙つてゐる。三四郎の眼はぼんやり庭の上にある。引越ではない。丸で小集の体に見える。談話も従つて気楽なものである。たゞ美禰子丈が広田先生の蔭で、先生がさつき脱ぎ棄てた洋服を畳み始めた。先生に和服を着せたのも美禰子の所為と見える。
「今のオルノーコの話だが、君は疎忽しいから間違へると不可ないから序に云ふがね」と先生の烟が一寸途切れた。
「へえ、伺つて置きます」と与次郎が几帳面に云ふ。
「あの小説が出てから、サヾーンといふ人が其話を脚本に仕組んだのが別にある。矢張り同じ名でね。それを一所にしちや不可ない」
「へえ、一所にしやしません」
洋服を畳んで居た美禰子は一寸与次郎の顔を見た。
「その脚本のなかに有名な句がある。Pity's akin to love といふ句だが……」それ丈で又哲学の烟を熾に吹き出した。
「日本にもありさうな句ですな」と今度は三四郎が云つた。外のものも、みんな有りさうだと云ひ出した。けれども誰にも思ひ出せない。では一つ訳して見たら好からうといふ事になつて、四人が色々に試みたが一向纏まらない。仕舞に与次郎が、
「これは、どうしても俗謡で行かなくつちや駄目ですよ。句の趣が俗謡だもの」と与次郎らしい意見を呈出した。
そこで、三人が全然翻訳権を与次郎に委任する事にした。与次郎はしばらく考へてゐたが、
「少し無理ですがね、かう云ふなどうでせう。可哀想だた惚れたつて事よ」
「不可ん、不可ん、下劣の極だ」と先生が忽ち苦い顔をした。その云ひ方が如何にも下劣らしいので、三四郎と美禰子は一度に笑ひ出した。此笑ひ声がまだ已まないうちに、庭の木戸がぎいと開いて、野々宮さんが這入つて来た。
「もう大抵片付いたんですか」と云ひながら、野々宮さんは縁側の正面の所迄来て、部屋のなかにゐる四人を覗く様に見渡した。
「まだ片付きませんよ」と与次郎が早速云ふ。
「少し手伝つて頂きませうか」と美禰子が与次郎に調子を合せた。野々宮さんはにや/\笑ひながら、
「大分賑やかな様ですね。何か面白い事がありますか」と云つて、ぐるりと後向に縁側へ腰を掛けた。
「今僕が翻訳をして先生に叱られた所です」
「翻訳を? どんな翻訳ですか」
「なに詰らない――可哀想だた惚れたつて事よと云ふんです」
「へえ」と云つた野々宮君は縁側で筋違に向き直つた。「一体そりや何ですか。僕にや意味が分らない」
「誰にだつて分らんさ」と今度は先生が云つた。
「いや、少し言葉をつめ過たから――当り前に延ばすと、斯うです。可哀想だとは惚れたと云ふ事よ」
「アハヽヽ。さうして其原文は何と云ふのです」
「Pity's akin to love」と美禰子が繰り返した。美くしい奇麗な発音であつた。
野々宮さんは、縁側から立つて、二三歩庭の方へ歩き出したが、やがて又ぐるりと向き直つて、部屋を正面に留つた。
「成程旨い訳だ」
三四郎は野々宮君の態度と視線とを注意せずには居られなかつた。