title
三四郎 六の十一
author
夏目金之助
body
三四郎は上から、二人を見下してゐた。二人は枝の隙から明らかな日向へ出て来た。黙つてゐると、前を通り抜けて仕舞ふ。三四郎は声を掛けやうかと考へた。距離があまり遠過ぎる。急いで二三歩芝の上を裾の方へ下りた。下り出すと好い具合に女の一人が此方を向いて呉れた。三四郎はそれで留つた。実は此方からあまり御機嫌を取りたくない。運動会が少し癪に障つてゐる。
「あんな所に……」とよし子が云ひ出した。驚ろいて笑つてゐる。この女はどんな陳腐なものを見ても珍らしさうな眼付をする様に思はれる。其代り、如何な珍らしいものに出逢つても、やはり待ち受けてゐた様な眼付で迎へるかと想像される。だから此女に逢ふと重苦しい所が少しもなくつて、しかも落ち付いた感じが起る。三四郎は立つた儘、これは全く、この大きな、常に濡れてゐる、黒い眸の御蔭だと考へた。
美禰子も留つた。三四郎を見た。然し其眼は此時に限つて何物をも訴へてゐなかつた。丸で高い木を眺める様な眼であつた。三四郎は心の裡で、火の消えた洋燈を見る心持がした。元の所に立ちすくんでゐる。美禰子も動かない。
「何故競技を御覧にならないの」とよし子が下から聞いた。
「今迄見てゐたんですが、詰らないから已めて来たのです」
よし子は美禰子を顧みた。美禰子はやはり顔色を動かさない。三四郎は、
「夫より、あなた方こそ何故出て来たんです。大変熱心に見て居たぢやありませんか」と当た様な当ない様な事を大きな声で云つた。美禰子は此時始めて、少し笑つた。三四郎には其笑ひの意味が能く分らない。二歩ばかり女の方に近付いた。
「もう家へ帰るんですか」
女は二人とも答へなかつた。三四郎は又二歩ばかり女の方へ近付いた。
「何所かへ行くんですか」
「えゝ、一寸」と美禰子が小さな声で云ふ。よく聞えない。三四郎はとう/\女の前迄下りて来た。しかし何所へ行くとも追窮もしないで立つてゐる。会場の方で喝采の声が聞える。
「高飛よ」とよし子が云ふ。「今度は何メートルになつたでせう」
美禰子は軽く笑つた許である。三四郎も黙つてゐる。三四郎は高飛に口を出すのを屑しとしない積である。すると美禰子が聞いた。
「此上には何か面白いものが有つて?」
此上には石があつて、崖がある許りである。面白いものがあり様筈がない。
「何にもないです」
「さう」と疑を残した様に云つた。
「一寸上がつて見ませうか」とよし子が、快く云ふ。
「あなた、まだ此所を御存じないの」と相手の女は落ち付いて出た。
「宜いから入つしやいよ」
よし子は先へ上る。二人は又跟いて行つた。よし子は足を芝生の端迄出して、振り向きながら、
「絶壁ね」と大袈裟な言葉を使つた。「サツフオーでも飛び込みさうな所ぢやありませんか」
美禰子と三四郎は声を出して笑つた。其癖三四郎はサツフオーがどんな所から飛び込んだか能く知らなかつた。
「あなたも飛び込んで御覧なさい」と美禰子が云ふ。
「私? 飛び込みませうか。でも余まり水が汚ないわね」と云ひながら、此方へ帰つて来た。
やがて女二人の間に用談が始つた。
「あなた、入らしつて」と美禰子がいふ。
「えゝ。あなたは」とよし子がいふ。
「何うしませう」
「どうでも。なんなら私一寸行つてくるから、此所に待つて入らつしやい」
「さうね」
中々片付かない。三四郎が聞いて見ると、よし子が病院の看護婦の所へ、序だから、一寸礼に行つてくるんだと云ふ。美禰子は此夏自分の親戚が入院してゐた時近付になつた看護婦を訪ねれば訪ねるのだが、是は必要でも何でもないのださうだ。