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三四郎 七の一
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夏目金之助
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裏から回つて婆さんに聞くと、婆さんが小さな声で、与次郎さんは昨日から御帰りなさらないと云ふ。三四郎は勝手口に立つて考へた。婆さんは気を利かして、まあ御這入りなさい。先生は書斎に御出ですからと云ひながら、手を休めずに、膳椀を洗つてゐる。今晩食が済んだ許の所らしい。
三四郎は茶の間を通り抜けて、廊下伝ひに書斎の入口迄来た。戸が開いてゐる。中から「おい」と人を呼ぶ声がする。三四郎は敷居のうちへ這入つた。先生は机に向つてゐる。机の上には何があるか分らない。高い脊が研究を隠してゐる。三四郎は入口に近く坐つて、
「御勉強ですか」と丁寧に聞いた。先生は顔丈後へ捩ぢ向けた。髭の影が不明瞭にもぢや/\してゐる。写真版で見た誰かの肖像に似てゐる。
「やあ、与次郎かと思つたら、君ですか、失敬した」と云つて、席を立つた。机の上には筆と紙がある。先生は何か書いてゐた。与次郎の話に、うちの先生は時々何か書いてゐる。然し何を書いてゐるんだか、他の者が読んでも些とも分らない。生きてゐるうちに、大著述にでも纏められゝば結構だが、あれで死んで仕舞つちやあ、反古が積る許だ。実に詰らない。と嘆息してゐた事がある。三四郎は広田の机の上を見て、すぐ与次郎の話を思ひ出した。
「御邪魔なら帰ります。別段の用事でもありません」
「いや、帰つてもらふ程邪魔でもありません。此方の用事も別段の事でもないんだから。さう急に片付ける性質のものを遣つてゐたんぢやない」
三四郎は一寸挨拶が出来なかつた。然し腹のうちでは、此人の様な気分になれたら、勉強も楽に出来て好からうと思つた。しばらくしてから、斯う云つた。
「実は佐々木君の所へ来たんですが、居なかつたものですから……」
「あゝ。与次郎は何でも昨夜から帰らない様だ。時々漂泊して困る」
「何か急に用事でも出来たんですか」
「用事は決して出来る男ぢやない。たゞ用事を拵へる男でね。あゝ云ふ馬鹿は少ない」
三四郎は仕方がないから、
「中々気楽ですな」と云つた。
「気楽なら好いけれども。与次郎のは気楽なのぢやない。気が移るので――例へば田の中を流れてゐる小川の様なものと思つてゐれば間違はない。浅くて狭い。しかし水丈は始終変つてゐる。だから、する事が、ちつとも締りがない。縁日へひやかしになど行くと、急に思ひ出した様に、先生松を一鉢御買ひなさいなんて妙な事を云ふ。さうして買ふとも何とも云はないうちに値切つて買つて仕舞ふ。其代り縁日ものを買ふ事なんぞは上手でね。あいつに買はせると大変安く買へる。さうかと思ふと、夏になつてみんなが家を留守にするときなんか、松を座敷へ入れたまんま雨戸を閉てて錠を卸して仕舞ふ。帰つて見ると、松が温気で蒸れて真赤になつてゐる。万事さう云ふ風で洵に困る」
実を云ふと三四郎は此間与次郎に弐十円借した。二週間後には文芸時評社から原稿料が取れる筈だから、それ迄立替てくれろと云ふ。事理を聞いて見ると、気の毒であつたから、国から送つて来た許りの為替を五円引いて、余りは悉く借して仕舞つた。まだ返す期限ではないが、広田の話を聞いて見ると少々心配になる。しかし先生にそんな事は打ち明けられないから、反対に、
「でも佐々木君は、大いに先生に敬服して、蔭では先生の為に中々尽力してゐます」と云ふと、先生は真面目になつて、
「どんな尽力をしてゐるんですか」と聞き出した。所が「偉大なる暗闇」其他凡て広田先生に関する与次郎の所為は、先生に話してはならないと、当人から封じられてゐる。やり掛けた途中でそんな事が知れると先生に叱られるに極つてるから黙つて居るべきだといふ。話して可い時には己が話すと明言してゐるんだから仕方がない。三四郎は話を外らして仕舞つた。