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三四郎 八の五
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夏目金之助
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翌日は幸ひ教師が二人欠席して、午からの授業が休みになつた。下宿へ帰るのも面倒だから、途中で一品料理の腹を拵らへて、美禰子の家へ行つた。前を通つた事は何遍でもある。けれども這入るのは始てゞある。瓦葺の門の柱に里見恭助といふ標札が出てゐる。三四郎は此所を通る度に、里見恭助といふ人はどんな男だらうと思ふ。まだ逢つた事がない。門は締つてゐる。潜りから這入ると玄関迄の距離は存外短かい。長方形の御影石が飛び々々に敷いてある。玄関は細い奇麗な格子で閉て切つてある。電鈴を押す。取次の下女に、「美禰子さんは御宅ですか」と云つた時、三四郎は自分ながら気恥かしい様な妙な心持がした。他の玄関で、妙齢の女の在否を尋ねた事はまだない。甚だ尋ね悪い気がする。下女の方は案外真面目である。しかも恭しい。一旦奥へ這入つて、又出て来て、丁寧に御辞儀をして、どうぞと云ふから尾いて上がると応接間へ通した。重い窓掛の懸つてゐる西洋室である。少し暗い。
下女は又、「暫らく、どうか……」と挨拶をして出て行つた。三四郎は静かな室の中に席を占めた。正面に壁を切り抜いた小さい暖炉がある。其上が横に長い鏡になつてゐて、前に蝋燭立が二本ある。三四郎は左右の蝋燭立の真中に自分の顔を写して見て、又坐つた。
すると奥の方でイオリンの音がした。それが何所からか、風が持つて来て捨てゝ行つた様に、すぐ消えて仕舞つた。三四郎は惜い気がする。厚く張つた椅子の脊に倚りかゝつて、もう少し遣れば可いがと思つて耳を澄ましてゐたが、音は夫限で已んだ。約一分も立つうちに、三四郎はイオリンの事を忘れた。向ふにある鏡と蝋燭立を眺めてゐる。妙に西洋の臭ひがする。それから加徒力の連想がある。何故加徒力だか三四郎にも解らない。其時イオリンが又鳴つた。今度は高い音と低い音が二三度急に続いて響いた。それでぱつたり消えて仕舞つた。三四郎は全く西洋の音楽を知らない。然し今の音は、決して、纏つたものゝ一部分を弾いたとは受け取れない。たゞ鳴らした丈である。その無作法にたゞ鳴らした所が、三四郎の情緒によく合つた。不意に天から二三粒落ちて来た、出鱈目の雹の様である。
三四郎が半ば感覚を失つた眼を鏡の中に移すと、鏡の中に美禰子が何時の間にか立つてゐる。下女が閉てたと思つた戸が開いてゐる。戸の後に掛けてある幕を片手で押し分けた美禰子の胸から上が明らかに写つてゐる。美禰子は鏡の中で三四郎を見た。三四郎は鏡の中の美禰子を見た。美禰子はにこりと笑つた。
「入らつしやい」
女の声は後で聞えた。三四郎は振り向かなければならなかつた。女と男は直に顔を見合せた。其時女は廂の広い髪を一寸前に動かして礼をした。礼をするには及ばない位に親しい態度であつた。男の方は却つて椅子から腰を浮かして頭を下げた。女は知らぬ風をして、向ふへ廻つて、鏡を脊に、三四郎の正面に腰を卸した。
「とう/\入らしつた」
同じ様な親しい調子である。三四郎には此一言が非常に嬉しく聞えた。女は光る絹を着てゐる。先刻から大分待たしたところを以て見ると、応接間へ出る為にわざわざ奇麗なのに着換へたのかも知れない。それで端然と坐つてゐる。眼と口に笑を帯びて無言の儘三四郎を見守つた姿に、男は寧ろ甘い苦しみを感じた。凝として見らるゝに堪へない心の起つたのは、其癖女の腰を卸すや否やである。三四郎はすぐ口を開いた。殆んど発作に近い。
「佐々木が……」