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三四郎 十の五
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夏目金之助
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三四郎は此機会を利用して、丸卓の側を離れて、美禰子の傍へ近寄つた。美禰子は椅子の脊に、油気のない頭を、無雑作に持たせて、疲れた人の、身繕に心なき放擲の姿である。明らさまに襦袢の襟から咽喉頸が出てゐる。椅子には脱ぎ捨てた羽織を掛けた。廂髪の上に奇麗な裏が見える。
三四郎は懐に三拾円入れてゐる。此三拾円が二人の間にある、説明しにくいものを代表してゐる。――と三四郎は信じた。返さうと思つて、返さなかつたのも是が為である。思ひ切つて、今返さうとするのも是が為である。返すと用がなくなつて、遠ざかるか、用がなくなつても、一層近付いて来るか、――普通の人から見ると、三四郎は少し迷信家の調子を帯びてゐる。
「里見さん」と云つた。
「なに」と答へた。仰向いて下から三四郎を見た。顔を故の如くに落ち付けてゐる。眼丈は動いた。それも三四郎の真正面で穏やかに留つた。三四郎は女を多少疲れてゐると判じた。
「丁度序だから、此所で返しませう」と云ひながら、釦を一つ外して、内懐へ手を入れた。女は又、
「なに」と繰り返した。故の通り、刺激のない調子である。内懐へ手を入れながら、三四郎は何うしやうと考へた。やがて思ひ切つた。
「此間の金です」
「今下すつても仕方がないわ」
女は下から見上げた儘である。手も出さない。身体も動かさない。顔も元の所に落ち付けてゐる。男は女の返事さへ能くは解し兼ねた。其時、
「もう少しだから、何うです」と云ふ声が後で聞えた。見ると、原口さんが此方を向いて立つてゐる。画筆を指の股に挟んだまゝ、三角に刈り込んだ髯の先を引っ張つて笑つた。美禰子は両手を椅子の肘に掛けて、腰を卸したなり、頭と脊を真直に延ばした。三四郎は小さな声で、
「まだ余程掛りますか」と聞いた。
「もう一時間ばかり」と美禰子も小さな声で答へた。三四郎は又丸卓に帰つた。女はもう描かるべき姿勢を取つた。原口さんは又烟管を点けた。画筆は又動き出す。脊を向けながら、原口さんが斯う云つた。
「小川さん。里見さんの眼を見て御覧」
三四郎は云はれた通りにした。美禰子は突然額から団扇を放して、静かな姿勢を崩した。横を向いて硝子越に庭を眺めてゐる。
「不可ない。横を向いてしまつちや、不可ない。今描き出した許だのに」
「何故余計な事を仰しやる」と女は正面に帰つた。原口さんは弁解をする。
「冷かしたんぢやない。小川さんに話す事があつたんです」
「何を」
「是から話すから、まあ元の通りの姿勢に復して下さい。さう。もう少し肘を前へ出して。夫で小川さん、僕の描いた眼が、実物の表情通り出来てゐるかね」
「何うも能く分らんですが。一体斯うやつて、毎日毎日描いてゐるのに、描かれる人の眼の表情が何時も変らずにゐるものでせうか」
「それは変るだらう。本人が変るばかりぢやない、画工の方の気分も毎日変るんだから、本当を云ふと、肖像画が何枚でも出来上がらなくつちやならない訳だが、さうは行かない。又たつた一枚で可なり纏つたものが出来るから不思議だ。何故と云つて見給へ……」
原口さんは此間始終筆を使つてゐる。美禰子の方も見てゐる。三四郎は原口さんの諸機関が一度に働らくのを目撃して恐れ入つた。